近代から現代の景徳鎮

 偽古作の流行と模倣のすすめ

洪秀全の太平天国の戦火(1851-64年)に景徳鎮は破壊され、御器廠の活動も停止した。同冶五年(1866年)李鴻章は、蔡錦青を監督官として昔の御器廠の建物を再建し、もう一度御用品製作を始めることにした。建物が出来上がり、焼造がはじまったのは、八年後の同冶十三年(1874年)のことといわれる。この時の製品は五十五種で、古器の倣作が多かったそうだ。光緒年間の焼造は光緒二年(1876年)の下命が最初で、同二十六年(1900年)まで何回か焼造が行われたようである。したがって光緒官窯の遺品はかなり多いが、清朝初期の康煕・雍正・乾隆の隆盛時にくらべるとはるかに少量で、新しい考案もなく、みるべき精作はないとされている。けれどもこれには違った見方もある。光緒・宣統年間の自序をもち、清朝末期の北京における見聞によった鑑識家、寂園の「淘雅」には、「近ごろの官窯の拙劣な製品は、古器を模倣した(民窯の)偽者にはるかに及ばない」という文がみられる。これよりややのちの許之衡の「飲流説瓷」はおよそ次のように記している。 「古器の倣作は光緒年間がもっとも盛んである。咸豊・同冶年間の倣作は一見して識別することができるが、これは古器を模倣しながらも、作風の点で各時期の枠をこえることができなかったためである。光緒年間になると事情はかわった。この時期には歴代のあらゆるものの模倣が行われ、しかもどれもよく似ているのである。倣古作の歴史を眺めると、清朝末期には宋・元の磁器や単色釉の倣作が多い。これは当時清初の優れた製品がゆきわたっていたにもかかわらず、宋・元の古書の研究が進みその文化の高さをたたえる風がさかんだったためである。中葉には明代のものの倣作が行われた。明の画風は簡略で真似やすかったのである。清朝末期から民国初年になると、倣古の技巧は著しく進歩した。その理由は官窯のよい技術者が四散し、従来は倣作が許されなかった御用品をすべて自由に模倣できるようになったためで、もうひとつの理由は、近年西洋人が官窯の優品を高価で買いあさるようになったため、競ってその倣作がおこなわれたのである。顔料の研究も進歩し、選ばれた良工が倣作に力を尽くした。その優れた作品はほとんど古器と異なるところがない。とくに乾隆銘の色絵がもっとも多量であるが、これは時の流行にそったためである。単色釉については、明代のもの、康煕・雍正の銘のあるものに優れたものがある。最も精巧で判別しにくいのは、たいがい最近の倣古作なのである。」


 民国五年(1916年)、中華民国大統領から強引に帝位についた河南省出身の袁世凱が、景徳鎮の御器廠を復活して、精巧な磁器四万件を焼かせた。袁世凱は「洪憲」という年号を用いたので、製品には「洪憲年製」の銘をいれさせた。この遺例は現在も残っており、倣古作が多く、なかなか優れたものがある。袁世凱はもともと李鴻章の部下だった軍人で、西太后と結んで清王朝末期に権勢を振るった人物だが、孫文らによる革命の進行にあたって革命軍と取引し、清朝廃絶を条件に大統領の地位を得たのである。皇帝を称していくらもたたないうちに(3ヶ月)、内外から激しい非難をうけ、帝政を取り消したから、洪憲の年号はごく一時の夢と終わった。

 清朝末期から民国初年にいたる、こうした倣古作品の流行は、いろいろの意味をもっている。許之衡の指摘している、外国人の渇望にこたえたというようなことも、確かにひとつの理由だが、必ずしもそれだけではない。また官窯の崩壊により、高い技術を持った良工が自由に倣作をはじめたことも、理由というよりはひとつの結果である。おそらく従来の独裁君主のもとでの限られた優品製作への反発、あるいは諸外国の蚕食・支配に対する反抗といったものが、こうした古い伝統的な作風をよび起したのにちがいない。古い権威を無視し、あらゆる過去の優作を自らの手で再現しようという意欲が、この時期の景徳鎮には満ちみちていたと思われる。

 景徳鎮の八大名家と呼ばれる 王g、ケ碧珊、徐仲南、田鶴仙、王大凡 程意亭、汪野亭、劉雨今 、彼らはまた珠山八友ともいわれた。こうした人々のほかにも、現在多くの優れた陶工の名が知られている。

 けれども1911年の革命から、軍閥の専制と諸外国の圧迫、国共の内戦、抗日戦争、そして人民解放戦争と続く戦乱の時代、一窯場の景徳鎮の製磁業が安穏であろうはずはない。人民の芸術の発展は阻害されざるをえず、磁器製作も衰退せざるをえなかったのである。ただこの間、清朝末期に著しく台頭した古い名品の倣造が、なお引き続いて行われていたらしいことは、注目しなければならない。一方では生き貫く為、妻子家族を守る為として仕事をかかえ、また不本意ながら自己保身の為とはいえ、戦争と革命の日々を送りながら、長い伝統を失わずに維持してきたというのは、驚くべきことである。その製品はいまではすべてただ偽者・贋物とされ、とりあげる人は少ない。けれども大量のそうしたものの背後にあるものを、私たちは見落としてはならないだろうとおもう。贋作も一定のレベルのものがある量以上集まれば、それは限りなく近い本物、場合によってはそれを凌いでしまうこともある。
 人が表現するものは焼物であれ、なんでであれ、それを鑑賞する人が全くいなければ本物もにせものもない。一定の質をもった作品がある程度出回り、同時にそれを味わえる人数があるレベルを越えるとそれが元々どうであったかは問われなくなり、場合によってはそこから別の本物が出てくる。
ここでまず本物とはなにか? もとの動かしがたい現実としての現象と、極端に削られこれ以上単純化できないある実体。どちらが光でどちらが影という議論は楽しいが、あまり意味はないといえる。どちらも本物といえる。次にそのふたつの本物の間によこたわるおびただしい数の偽物(相異物)である。ものは言いようととらえられると困るのであるが、ふたつの本物を支えているのはこれら偽物(相異物)なのである。というよりこれらがなければ本物は色褪せた看板でしかない。
複雑な現象ではなにが本物か、あるいはなにがそうなり得るか、あらかじめわかる場合はない(だからこそ複雑でおもしろいなのであるが)。従って多様なアプローチと見方が可能であり、悪くするとなにを言っても構わなくなる。ひとりの人間がこれに立ち向かうときは、ある種の世界観をもたないといけない。それでもその結果はほとんどの場合は他人にとっては元の現象の一部しか捉えていないという意味で偽物である。とりわけ日本人は偽物を嫌うし、また評価しない。贋作事件が起きると、その作者のみならず、評価を誤った審査員もその全存在を疑われる。しかしいい偽物は積極的に認める必要があるし、その製作は大いに奨励されるべきであろう。多くの人が鑑賞に足る偽物はもう偽物ではなくなるのだから。

 1949年中華人民共和国成立後、景徳鎮を復旧する仕事がはじまり、新しい体制のもとの着々と景徳鎮の建設が進められ、1953年には「祖国の偉大なる陶磁工芸を発揚し、優良なる伝統を継続するために」景徳鎮市陶磁館が設立された。これは歴代の景徳鎮の優作を展示し、現代の作品にまで及ぶもので、景徳鎮の輝かしい歴史と、陶工たちの知恵を実物によって示し、「祖国の偉大な文化芸術遺産を学習する」場所を提供しているのである。

が、悲しいかな大躍進、人民公社、文化大革命、、と25年近く混乱と停滞が続いた。

 いま私たちは現代の景徳鎮の製品を、日本のあらゆるところでみることができる。それらは私たち(日本人の趣向から)にとって好ましいものである場合もあるし、そうでない場合もあるだろう。けれども長い歴史を持つ磁器の町、景徳鎮の人々の、外国人に与えたものがきわめて大きいこと、それが現在にまで及んでいることを考えると、私たちと景徳鎮の距離は思いがけず近いのである。今は上海から特急で一日、飛行機も週2便飛び、自由にいくことができるようになった。陶磁器製作のメッカともいえる景徳鎮の土を踏み、その風物にふれ、そこに生きた、生きている陶工達のなしとげたことの数々をしのぶ機会が得られるのである。  ぜひ一度。

 追 私の心に深く印象的に残っている事がある、それは何回目かの景徳鎮訪問の時、日本で陶磁器ファンが好んで読む雑誌を持って行った。景徳鎮の友達たちと昼食を食べている時、明代の赤絵の事で討論が始まった。私はたまたま持っていた本の中に写真入りで、中国赤絵を紹介した有名美術大学の先生の文章を武器に戦ってみた、終盤になり一人がどこかに出かけ、半時間ぐらいして一見して風采の上がらない男を連れて帰ってきた。それからその男に私が持って行った本の写真を見せ、こう言った。
これを見た事があるか? ある。 どうして? 俺が作った。  おまえは明代生まれか? いや、、、。
 それから彼らが言った言葉に、我々景徳鎮の人間は何世代も何百年も嫌も負うもなく、妻や子を養うため家族を守る為、土を捏ねてきたんだ、おまえらの国のように今日はこの産業がいいからこれ、明日はあれがいいからあれ、少し経済にゆとりが出たから陶磁器いたずらをするとは、訳がちがう。なあ、、保坂 もしおまえが10万でも出してみ、、東京の青山あたりの骨董屋に持ってけば
200万位する物をつくってやるよ。 俺達は一族を守る為には何でもやるよ。   ごもっとも  ごもっとも。