★★★ 四川大学の写真   1985年4月  ★★★
第二の青春時代の思い出 「回想」
★北京にいるつもりだったが、1985年、四川省と山梨県、成都市と甲府市が、
 友好都市として、結ばれる事となった。当時は四川大学はまだ、留学生は
 受け入れてなく、専科の先生が何人かいるだけだった。




★成都市の外事課から電話をもらい、相談の末、四川大学に籍を置いた。
 
 写真の左側は大学の外事課の張さん、右側のアメリカの友好関係できた、

と言っていた、「金雪莉:ジンシュェリー」。

★当時の四川大学は、留学生寮がないので、専科の先生が入る、
専科楼の4階に住むことになった。
  

   ★専科楼「一家族が住む」だけあり、二部屋と応接間と風呂場付
洗面所があり独りでは寂しい、応接間に中国国旗を飾る。
   
★蚊帳の中で
★その後留学生が4人になって「日本・アメリカ・カナダ・ロシア」 若手の先生が二人付いて、クラスを作ったが、皆ばらばらで、2週間位でクラスはやめてしまった。  その後は月に2度、研修旅行と言うことになった。 これはとても楽しかった
★外事課の中庭で金雪莉。奥の建物の1階が食堂で2階はホール。
★金雪莉とは初対面から気が合った。

四川に来て、2ヶ月たった頃、日本から私の好きな、餅・マヨネーズ・焼き海苔・ふりかけ等が、送られて来たと、連絡があり、金雪莉と郵便局に持ちにいったら、餅以外のものは、検査として、皆口を切られていた。特にマヨネーズは20パーセント以上、外に出ていた。怒っても仕方がない、彼らは餅以外は見たことがなかったから、、、。
金雪莉さえ知らない物が多かったが、彼女に餅を紹介したら、気に入ったらしく、毎日、何かの口実を作り、遊びに来てとうとう半分は彼女に食べられた。
★金雪莉はダンスが得意で、ある日あるホテルで、舞会「ダンスパーテイ」があるから誘いに来た。俺は踊れないといっても承知しない。餅のお礼に教えると言う。まあそれならと思い、バスで出かけた。そのバスの中の出来事で、金雪莉が、ギャ〜と騒いだ。見たら彼女のアフロヘアーの毛を中国人のおばさんが、引っ張って、、本物だ〜、本物だ〜と周りの人と騒いでいる。バスから降りても、雪莉は怒っていたが、みんな黒人を見たのは初めてだから仕方がないよ、、、。悪気がある訳ではない、みんな興味があるからさ、、。

その一週間後に床屋にいった。パーマをかけていたから、そこにいた彼らは私の発音とパーマをかけた頭をみて、香港人かと聞く、日本人と言うと、その中の一人が来て、私の頭を触り、(つの)がないと言う。日本人のことを彼らは日本鬼子とか東洋鬼とか言っていたから、鬼の角を確かめたかったんだろう。「たぶん半分冗談で、、」 そこにいた、6.、7人いた老人も若者も日本人を見て話したのは初めてだ、と言われれば怒るわけにもいかなく、その後、仲良くなりよく遊びに出かけた。
言われて見れば日中戦争では日本軍は武漢三鎮から飛行機で重慶政府まで爆弾を落としにいっていただけ、。
★彼女もやはり買い物は好きで、よく一緒に行くが、服を買うとき黒系が好きらしく良く買う、ある日、又黒色の服を買うので、それを着たら上から下まで真っ黒で、夜、歩いていたら絶対、車に轢かれるからやめろと言った、、、。言い過ぎたかなと思ったが、彼女も考えて、、明るい色に変えた。 なぜか、、

「当時、車は夜でもライトを付けて走らない、スモールランプのみ、 もちろん自転車は全国、無灯である。これは毛沢東時代、重いしタイヤも減るから必要なしと言われてから、皆あのタイヤの横に付いている発電機を取ってしまったそうな、、、。
★四川大学の隣は望江楼公園  

ここには百種類以上の竹があるそうだが、中に、写真のような茶舘があり
気に入ったお茶が有り、たびたび出かけた。
★成都にも西南民族学校「現・西南民族大学」があり、民族衣装を着ている彼女と一枚。 四川省にも少数民族はチベット族・イ族・等二十数個の民族がおるそうで、外事課から特にチベット族には気をつけるように、と言われたこと。 中国政府は少数民族優遇政策をしていて、民族の習慣・風習は認めております。 そのため、モンゴル族、ウイグル族、チベット族でも、習慣で小刀を持ち歩いています。

一度バス中で、席の取り合いで、チベット人と中国人て喧嘩にになり、30cmもある、山刀を振り回した時はびっくりした事があります