品名:拓本 孔子廟堂之碑  虞世南
品番:TUO-52
サイズ: 165cmx86cm
価格:¥4.300 「税込在4


唐の太宗は武徳9年(626)帝位に就き、即位後間もなく、儒学奨励のため、国都長安にあった孔子廟を再建することを詔しました。 孔子廟とは、『史記』によると、孔子(名は丘、前552~479)は魯城の北、泗水(シスイ)の辺に葬られましたが、後に人々が彼の住居を廟として祭り、その書、衣、冠、琴、車などを収めて永く尊崇を寄せたとあります。
 やがて、漢代には儒教が国教として保護を受け、6~7世紀(南北朝・隋・唐)には首都をはじめ各地の官学に廟が置かれ、それ以降孔子廟は全国的に設置されるようになりました。
 『貞観政要』巻7によると、貞観2年(628)、国子監(国立大学)に孔子廟が建てられたとあります。 国子祭酒楊師道(ヨウシドウ)らは重修完了後、孔子廟再建と文教宣揚の趣旨を碑に刻して永く記念したいと奏請しました。
 太宗はこれに応じ、貞観7年(633)、当時太子中舎人から著作郎になった虞世南に勅命を奉じて碑文を撰し、かつ書せました。
 碑文は孔子の聖徳を讃え、歴代儒教の荒廃を述べ、唐王朝における孔子廟建立の意義を説いています。表現は華麗ですが、随所に誇張が見られ、非常に難解です。
 その冒頭に、虞世南の官銜が「太子中舎人・行著作郎」と記されています。虞世南は貞観4年(630)11月に、著作郎から秘書少監に遷っていますから、《孔子廟堂碑》は、貞観2~4年の間、すなわち虞世南71~73歳ころの作文・揮毫であると推定できます。
 しかし、その原石は、建碑後まもなく、僅か数十本の拓本を取っただけで、新廟が火災になり、この原石も焼けてしまいました。
 武則天のときに再刻したといわれていますが、その重刻の唐拓も唐末には失われて伝わっていません。
 宋代初に至って、永興郡(長安)節度使の王彦超(オウゲンチョウ)が唐の原石の拓本を基に三刻して、北宋の第一代太祖の乾徳年間に西安学府にこれを建てました。
 この碑が現在碑林にあるもので、この拓本を《陜西本》と呼んでいます。碑文の最後に王彦超の官職名が2つ、永興郡節度使と中書令とあります。そこで、王彦超がこの2つの官職を兼ねていた時期から考えて、北宋の太祖の建隆年間末か乾徳年間初(~963~)に再建されたとされています。
 これに対し、元代に山東省の定陶河(テイトウガ)の岸が決裂したとき出土し、明にいたり、山東の城武学営に置かれた《城武本》と呼ばれるものがあります。これを《東廟堂》といいます。 そこで《陜西本》を《西廟堂》とも呼んでいます。
 北宋時代には唐の原石の拓本はすでに希で、一般には見られなくなっていました。そこで宋以後はこの復刻本が、虞世南の楷書の代表作として通行しました


拓本 孔子廟堂之碑  虞世南














孔子廟堂碑 蔵石編号 1375
楷書 唐(宋・乾徳年間に重刻) 
虞世南撰並書
1949年、前陜西省歴博より移管
竪形 龍頂 方座 3つに断裂