品名:顔真卿:際伯父稿(さいはくふぶんこう) 拓本
品番:TUO-45
サイズ: 73cmx45cm
価格:\3.980「税込」在3

顔真卿の行草書には、この「祭伯父文稿(さいはくふぶんこう)」以外にも「祭姪文稿」「争坐位文稿(そうざいぶんこう)」の名品があり、これらを顔真卿の三稿と尊称しています。一方、顔真卿は楷書で多くの碑文を揮毫しました。顔真卿の楷書は、欧陽詢(おうようじゅん)・虞世南(ぐせいなん)・ちょ遂良(すいりょう)らによって築かれた楷書の典型の上に立脚しつつ、独自の風格を加味したものです。蚕の頭のような起筆と、燕の尾のような払いから、蚕頭燕尾(さんとうえんび)と評される顔真卿の楷書は、石碑ごとに表情が異なるほど表現の幅が広く、一碑一面貌と称えられ、楷書の恰好の手本として現在も学ばれています。

顔真卿:際伯父稿(さいはくふぶんこう) 拓本

顔真卿(がんしんけい)(709~785)は、琅邪臨沂(ろうやりんぎ)(山東省)の人。代々、訓詁(くんこ)と書法を家学とする名家に生まれ、唐の玄宗皇帝の治世になる開元22年(734)、26歳で進士に及第し、玄宗・粛宗・代宗・徳宗の4人の皇帝に仕えました。字(あざな)を清臣(せいしん)といい、かつて平原太守(へいげんたいしゅ)をつとめたことから顔平原(がんへいげん)、また魯郡開国公(ろぐんかいこくこう)に封ぜられたことから顔魯公(がんろこう)とも呼ばれています。
天宝14年(755)、安禄山(あんろくざん)の乱が起こり、河北の諸侯が降伏する中で、顔真卿とその一族は敢然と義兵を挙げ、顔真卿は多くの肉親を失いながらも、唐王朝の危機を救いました。賊軍の手で首を刎ねられた甥の死を悼んで顔真卿が書いた「祭姪文稿(さいてつぶんこう)」は、悲憤やるかたなき顔真卿の激情を伝える傑作として知られています。