品名:大秦景教流行中国碑「2枚組」 拓本
品番:TUO-73
 碑頭 47cmx31cm  碑 186cmx87cm
価格:¥5.980 「税込」 在3

この碑は、キリスト教に関する珍重な資料です。「大秦」とはローマ帝国をさします。紀元前221年、秦の中国統一の盛威は世界各国に伝わりました。「秦」は、唐がそうであるように、中国の代称となりました。そこでローマ帝国は東方の「秦」に対し、西方の大国として「大秦」と称しました。
 「景教」とは、唐代に中国に伝来したキリスト教の一派ネストリウス教の呼び名です。
 ネストリウスとはコンスタンティノープル大主教のことです。モプスエスティアのテオドロスのもとでアンティオキア学派の神学を学びました。428年、皇帝テオドシウス2世によってコンスタンティノープル主教に任じられました。
 
 中国には、唐の太宗の貞観9年(635)、ペルシャ僧のアラボン(阿羅本)を団長とする伝導団が長安に到着するや、太宗は宰相の房玄齢らに命じて宮中に迎えました。そしてその経典の翻訳を勅許し、布教を勧めました。3年後には長安の義寧坊に一寺を建立させ、僧21人を出家させました。つぎの高宗も景教を保護し、諸州に寺院をおかせ、アラホンを尊んで鎮国大法王としました。

 引き続き粛宗・代宗・徳宗の治世に優遇され、建中2年(781)に、篤信の居士イズドブジド(伊斯)の出資によって《大秦景教流行中国碑》が建てられました。

 この碑の螭首の雕刻は雄麗で、成唐の典型的な作風です。中央は浮雲が蓮花を托す構図ですが、左右の刻飾には仏教的な「百日紅」の花紋が刻されています。
 碑額には楷書で3行「大秦景教流行中国碑」とあり、その上の部分に十字架が綫刻されています。
 碑文は清晰完美で、呂秀巌の書は、どこか虞世南を思わせる、すっきりとして明るい感じがします。しかも随所に行書のような筆使いが見られます。全体としては、清純な、力強い筆勢と、安定した均斉のとれた結構で、荘巌なまでの格調が漂っています。
 碑の内容は三つの部分から成っています。本文1行目から8行目の「天下文明」までには、天地創造からキリストの誕生、景教の教義・儀式を述べています。
 続く8行目の「太宗文皇帝光華啓運」から20行目の「我景力能事之巧用也」までには、大秦景教が唐の貞観9年(635)、ペルシャから中国に伝来し、太宗・高宗・武則天・中宗・睿宗・玄宗・粛宗・代宗・徳宗ら天帝の徳をたたえ、建中2年(781)、150年を記念して碑を建てたこと、景教が中国に伝来し興隆・衰退した変遷の概況を述べています。
 そして21行目の「大施主金紫光大夫」から最後24行目の「以揚休烈」までには、景教の大施主伊斯(イズドブジド)の功徳を讃えています。
 碑の下部には漢字のみでなく一部にシリア文字が併用され、碑の基部と両側に建立にかかわった76名の僧たちの姓名と職務、建碑の時、建碑人が刻されています。
 この碑は、建碑後64年目の会昌5年(845)大々的に行われた破仏の際に、地下に埋没されたようです。明末の天啓3年(1623)、長安の崇聖寺の境内から偶然に発掘され、碑亭を作って収められました。しかし、清の同治年間に、また、回教徒によって寺・亭ともに焼かれてしまいました。が、碑は幸いに損傷を免れました。




大秦景教碑「2枚組」 拓本


大秦景教流行中国碑 蔵石編号 643
楷書 唐・建中2年(781)
僧景浄述 呂秀巖書
明・天啓3年(1623)長安出土、
光緒33年(1907)10月4日碑林に移存
竪方形 亀座 碑額に十字架紋飾の刻 
碑下及び側にシリア文字の刻