清朝〜現代までの歴史と陶磁器
清王朝は中国最後の王朝で、約270年程「1644-1911」続きましたが、この王朝は漢民族ではない、満州族ですが、中国伝統文化を尊重した文化政策は、陶芸にも意を用い、清朝の彩色磁器は古今東西を通じて「神工鬼斧(しんこうきふ・神の仕業か、鬼がおのを振った鬼神の作品」と絶賛される世界最高の名品を残しています。
この清王朝は、現在の遼寧省瀋陽市から勃興した三代目の順治帝が、明朝を事実上滅亡させて、年号を順治元年と改め都を、北京と定めて入場したことに始まり、その後も年とともに国土を拡大して、貴族制度を基礎とした、中央集権の富国強兵を旨とした国家を樹立して、中国史上でも稀に見る名君が続き、皆それぞれ善政を施し、前の明王朝とは非常な相違をみせています。
順治帝は皇位についたとはいえ明王朝の遺臣達の再興運動や、南方地方の鎮定などに、なお十余年の歳月を要するなどの苦心を重ねていますが、翌年の順治二年には早くも景徳鎮がある江西省を掌中におさめて、李翔鳳(りしょうほう)を巡撫官(じゅんぶかん・地方長官の意味)に任じて、景徳鎮の復興などに努め、順治八年より陶磁器を献納させ、十一年から正式に御器廠が清王朝の下におかれます。
しかしこの時代の陶工達の殆どは、明代・万暦や天啓、崇禎時代から活躍していた老工達や、その技法を直接受けた人たちで、まだ明末期の作品とは大差なく、その費用は毎年地方官庁の省費でまかなわれていた程度の小規模でした。 それが20年後の康熙帝(こうきてい)に、御器廠の再興が計られて、以後火の手が上がるように陶磁器製作の意欲が炎の様に燃え上がって、清官窯の名品の誕生となります。
ただこれらの康煕前半迄の期間は、むしろ民窯全盛の時代であって、明末のいわば民窯的な品格の低い焼き物から、官窯中心の端正で、美意識の強いものえと転換が行われて、新しい佳麗な彩色の時代に移行したわけです。
清朝四代目の康熙帝は、非常な明君で、在位61年に及び、その間朗廷極(ろうていきょく)などを陶務官に任用して、後の清官窯の方向を示唆し、彼は康煕四十四年から五十一年までの七年間、江西巡撫官と、この陶務官を兼務して、特に朗窯と呼ばれる名品を生み、この作品は中国では、朗窯紅・牛血紅・宝石紅、日本では辰砂(しんしゃ)と呼ばれる濃紅色の磁器を以って、後世にその名を残しています。
西欧諸国でも、康煕時代の名品が東印度会社などを通じ、大金を投じて、盛んに収集していた事は文献上でも明らかですが、現実的にはフランスのルイ皇室を始め、英国、オランダ、ドイツ等の貴族社会で購入されていたこれ等の珍品が、今なお数多く遺品として伝えられている事でも証明されます。
そして、六十一年に及ぶ康煕時代(1662〜1722)が終わり、次に雍正帝が即位し、この冶世は、皇太子時代が永く、在位は十三年の短い期間でしたが(1723〜1735)中々の名君で雍正五年には年希尭(ねんきぎょう)を淮安の税関長に任ずると共に御器廠の陶務官を兼務せしめ、その翌年には、唐英をその補佐役に任じて官窯の品質向上に努めさせています。
この唐英が、雍正十三年冬、御器廠内に建立した有名な「事宜紀略・じききりゃく」の石碑には、当時焼造されていた陶磁器類の品目などが、詳細に記され、後世の指標として有名です。
唐英は、次の乾隆帝の時代になっても、なお引き続き陶務官として名指揮振りを発揮し、いわゆる「神工鬼斧」の神品、古月軒磁器を完成しています。
次の乾隆帝は、二十五歳で帝位につき、祖父の康煕を模範として政治を行った非常に聡明で賢君の誉れが高く、この冶世は六十年間(1736-1795)にも及んでおり、天下泰平を謳歌した平和な時代でした。自分の祖父康熙帝が、在位六十一年でしたから、これに遠慮して、六十年の在位で退位し、子供の嘉慶帝(かけいてい)に皇位を譲り、自分は上皇として八十八歳の長寿を保ちました。
また、この時代には、西欧諸国との貿易が盛んになり絹、陶磁器等を大量に輸出して多額の金銀ご得、経済的にも恵まれ、特に陶磁器関係では、康煕、、雍正時代に確立した技術を更に伸ばして、精巧無比の彩磁器の黄金時代を迎えます。
乾隆時代に続く嘉慶帝の在位は二十五年間(1796〜1820)に及んでおり、乾隆盛時の余光を受けて、景徳鎮では、その手法や彩色は、さほど変わることなく嘉慶官窯が維持されていましたが、それも乾隆帝が太上皇帝として三年間余り在位していたからです。
嘉慶時代も、末期に近づくにつれ、国力の衰退を反映し、加えてイギリスの東洋進出の圧力が加わり、焼物方面まで手が回らず、その作品も次第に低下の傾向を示しています。 例えば、胎土は粗雑さが見られ、白釉の地肌には、細かいしわがでていて、五彩や粉彩の技術も低下して、ただ西洋好みの洋彩風の物を焼造した輸出向けの感じのものが多くなってきます。
次の道光帝(どうこうてい)の道光年号は三十年(1821〜1850)に及びますが、この皇帝は文事を好み、美術工芸を奨励したので、窯業界も多少の繁栄を取り戻していますが、道光二十年(1840)には有名なアヘン戦争が起こり、イギリス等の進出を阻止できず、広東・福州・厦門(シアメン)などの開港と、香港の割譲をさせられるなどの事態におちいりましたが、それでも景徳鎮では、幸いにも前代程度の活動は続けていて、中には《慎徳堂》と銘した佳器さえ残しています。
またこの時代には、明の宣徳や成化の唐草文様の染付け磁器の写し物が多く造られており、我が国に現存するこれ等写し物の大半はこの時代の作品です。
次の咸豊帝(かんぽうてい)・同冶帝(どうじてい)の二十四年間(1851〜1874)は、咸豊二年より同冶四年までの十余年に長髪賊の乱(ちょうはつぞくのらん)や、咸豊八年には英仏連合軍の攻撃に敗れて、屈辱的な天津条約を結び、同十年には北京に侵攻されて、皇帝の離宮、円明園の焼き討ちを受け、二百余に及ぶ建造物の焼失と、多数の文物の略奪などがあり、一方、景徳鎮も内乱を起こした長髪賊の洪秀全によって御器廠はめちゃくちゃに破壊されて、中絶の憂き目をみましたが、同冶三年李鴻章によって、その半数近くが修復されました。
続いて同冶から光緒時代(こうちょ)(1875〜1908)に移りますが、光緒帝は幼少のため、西大后が権力を握って政務をとります。光緒二十年(1894)には、日清戦争、光緒二六年には世界列強八カ国の連合軍による北京占領・略奪(ここでも、、、)。国威の失墜はもちろんのこと、財政的にも破産状態となり、とても官窯の運営どころではない筈ですが、西大后などの皇室用のために前時代以上に官窯が活動しており、その中には西太后の雅号である《大雅斉》の銘のある珍品さえ焼造されています。
この当時、旧来の伝統を受け継いで官窯に従事していた陶工達は、生活のために、民窯に下り、むしろ民窯が盛んに活躍しており、特に輸出品に力を注いで日本にも相当輸入されていますが、この時代の特色のひとつは古作の倣古品が非常に多く焼造されました。
清朝最後の宣統年号は、わずか三年で終わり、中華民国が誕生し、二代目の大統領・袁世凱(えんせいがい)が《居仁堂》や《洪憲年製》の銘のある作品を僅かですが焼造させています。この中華民国時代には官窯制度である御器廠は廃止され、その殆どは、廃業、一部の陶工は僅かに民窯として独立し、細々と生産を続けていた程度です。
中華人民共和国樹立(1949)と共に、国家の統制化に入り、人民による人民の運営方式が採用され、景徳鎮の御器廠は再興され、清官窯の佳器を目標として、その製作に取り組むと同時に、一般大衆向けの大量生産も行われて輸出にも力が注がれてきました。
清歴代の年表
世代 | 皇帝 | 年号 | 在位 | 西暦 | 日本 |
三代 | 世祖 | 順治「じゅんじ」 | 17年 | 1644〜1661 | 正保元年〜寛文元年 |
四代 | 聖宗 | 康煕「こうき」 | 61年 | 1662〜1722 | 寛文二年〜享保七年 |
五代 | 世宗 | 雍正「ようせい」 | 13年 | 1723〜1735 | 享保八年〜享保二十年 |
六代 | 高宗 | 乾隆「けんりゅう」 | 60年 | 1736〜1795 | 元文元年〜寛政七年 |
七代 | 仁宗 | 嘉慶「かけい」 | 25年 | 1796〜1820 | 寛政八年〜文政三年 |
八代 | 宣宗 | 道光「どうこう」 | 30年 | 1821〜1850 | 文政四年〜嘉永三年 |
九代 | 文宗 | 咸豊「かんぽう」 | 11年 | 1851〜1861 | 嘉永四年〜文久元年 |
十代 | 穆宗 | 同冶「どうじ」 | 13年 | 1862〜1874 | 文久二年〜明治七年 |
十一代 | 徳宗 | 光緒「こうちょ」 | 34年 | 1875〜1908 | 明治八年〜明治四十一年 |
十二代 | 溥儀 | 宣統「せんとう」 | 3年 | 1909〜1911 | 明治四十二年〜明治四十四年 |
※一・二 世は、満州で地方部族として勃興時代 |