1950頃〜1980頃 の中国服装と背景

 二十世紀後半期にかけて、中国国民全体の服装は、これまでのどの時期よりも政治的な色彩を帯びていた。というのは、当時、服装を含め、ほとんどすべてが政治的基準で一人一人を評価したからである。服装が労働者、農民、兵士のような服装に近いかどうかが判定された。つまり、その人の服装がイデオロギーを直接表現していると思われたからである。こうした思想傾向の影響の下で、労働者、農民、兵士でない階層の人々はみな粗製の織物を美とし、さらに体のラインを露出しないゆったりしたデザインと、個性を見せない青、緑、灰色の色彩(最もよいのは衿や肘、臀部膝の所に似た色のつぎを当てること)を通して、労働者、農民を受け入れ、彼らに近づいている事を示さなければならなかった。例えば、袖またはズボンの裾を巻き上げ、ボタンもきちんとはめず、全体がしわだらけで、裸足に布靴をはき、靴の上には埃いっぱい被っている状態である。あるいは、手に白いタオルを持ったり、古い麦わら帽子を被ったりして、仕事中、あるいは仕事場からの帰宅途中の姿をわざわざしたのであった。同時に政治的な色彩の濃い胸章(例えば、毛沢東のバッジまたは毛沢東語録のバッジ)をつけなければならなかった。紅衛兵など(後には、あらゆるの人々に及ぶ)は袖章をつけるだけでなく、肩から斜めに『毛沢東語録』を入れた小さな赤いカバンを掛け、もう一方の肩に掛けた「解放軍式のかばん」と胸の前で十字型に交差させた。

 当時、もしパーマのような髪形や頭の後ろに髪を結い上げたり、少し「ハイカラ」な花模様やチェックの服を着て、スカートをはき、上着が身体にぴったりとしている、またズボンが細くてしかもラインがまっすぐ、さらに革靴を履いて、その先が尖がってぴかぴか光っていれば、これらはすべて封(封建地主階級)、資(資本階級)、修(修正主義)とみなされた。その時は政治的な用語の中に、「彼に反革命派の帽子を被せよう云々」という言葉が現われる事になる。もし誰かが「政治上の疑い」で人々から監視され、すぐにはその人に対する結論が出せない時には文章で、または口頭で「帽子が大衆の手に握られている」、あるいは「いつでも彼に帽子をかぶせる」といった。

こうした言い方は土地革命の時に由来し、紙を糊で張り合わせた長い筒の帽子を地主らの頭にかぶせて町をひき回し、筒の帽子の上にさらに墨で「打倒地主」や「地主の×××」と書いたのである。

六十年代には、女の子がゴム紐跳びをして遊ぶ時に作った歌に、「小さな革靴、かちゃかちゃと音を立て、資本階級の臭い思想」というものがあり、そこにも服装に関する当時の偏見を見ることができる。

美術作品の中でも、革命指導者以外の肯定的なイメージは、すべて肩が大きくて腰が太く、紫がかった濃赤色の顔に太い腕とたくましい足の労働者、農民、兵士を、明らかに概念化したものであった。

彼らの典型的な服装は、袖を巻き上げ、ズボンの裾を縛り、頭に麦わら帽子や軍人帽子を被る、または白いタオルで鉢巻きをし、足には解放靴を履くか、あるいは裸足というものであった。男性の髪型は全部「角刈り」または「横分け式」である。

「まん中分け」の髪型は多くが漢奸、「瓜皮式の帽子」をかぶったものは地主、頭に油をつけたり礼帽を被ったりしたものは資本家だった。建国初期の「烏打帽子」はかつて労働者の帽子であり、それはソ連の影響を受けていたのだが、その後、映画の中で「烏打帽子」は国民党のスパイの標識となった。

女子学生の髪型の場合は、「ブラシ」と呼ばれる二つの短いお下げにした。若い娘の場合は髪の毛を二つに分けて結び、それを俗に「たわし」といった。そのほかの大人の女性はすべて耳のところで切りそろえたまっすぐな短い髪型で、長いお下げと年寄りの女性が頭の後ろに結った髪型は、「封建的な尻尾」と批判された。

男性のはき物は一般に緑色のゴム紐か、そうでなければ布の「五つ穴」または「ゴム入り」の靴であり、女性はすべて紐付きの黒い布靴だった。




 では、当時の服装においても流行の物はあったのだろうか。もちろん、あったのである。


例えば、知識青年が農村に下放した(大都会から農村にいって農民になる事)当初の数年間、即ち七十年代の初めには、まず北京の高級幹部の子弟の間に、仲間内で「共同行動」と呼ばれた若者向けの遊びが起こった。そのうちの一つは人民服を着る事で、そのもっともよいのは父親の世代の青色のラシャの人民服である。

そして足には黒のスエードにも模造革で縁取りをしたゴム靴をはく。これを「革の縁飾り靴」といった。若い女性はさらに長いウールのマフラーを巻いた。この流行は北京から各地の大中都市へと広がり、その地の若者が相次いで真似た。

しかし、服装は同じであっても、「垢抜けない共同」と呼ばれることになってしまった。原因はとても簡単で、それらの多くが一般人の子弟だったからである。

もう一つ歴史上の出来事があった。当時、「四人組」の一人であった江青は突然、変な考えを思いつき、自分が考えたデザインでワンピースを作らせ、全国のすべての女性に着せようとした。幾度かの試作と作り直しを経て、結局、幅広の縁取りをした衿無しまたは折り衿に半袖、前身ごろにボタンつき、腰にベルト、ひだの多い長いスカートというデザインに決まった。


高級な物(例えば、江青本人が着用)は手作りの刺繍を入れ、一般のものは綿糸混紡の小さな花模様の織物(当時、「的確良(確かに良い)と呼ばれた)であった。最初、彼女は「漢唐の宮廷服」にしようとしたが、強制的に推し進めて国民の意思に背いたため、結局、「江青服」は「江青靴」とともにもの笑いとなった。このような自然発生的なものと強制的なものの二つの服装の流行は、いずれも七十年代の初めに現われた。そのほか、ブラウス(前に三つのボタンがある)は、一時的に争って買い求められたが、それは政治的な原因があったわけではなく、生活水準が低かったからである。


 七十年代末から八十年代初めの改革開放政策により、大多数の着用者はまず生地を問題とし、縫製の質の高さを求めた。そしてデザインの目新しさにむかい、選択の方向としては西洋を学び、その後個性を強調し始めた。

「食べ物は栄養のあるものを、着るものはお洒落を」と、やっと人々が言えるようになったとき、中年男性のほとんどは争ってラシャの青色の人民服を作り、それを礼服として着用した。当時、経済的な余裕がなく、しかも人々はコート(労働者、農民、兵士の普段着ではない)を着る事に対してまだ抵抗があった。

コートを着ると不思議な事に、大衆から浮き上がると思われたのである。続いて、背広を着用するのがもはや珍しいことではなくなり、若者が大いに世界の新しいファッションを追いかけるようになった。しかし、それと同時に、着装の面でいくつかのアンバランスな現象が現われ、その現象はずっと今世紀末まで続く事になる。


 アンバランスの現象の第一は、海外の最新のファッションと中国の服装の悪い習慣とが共存することである。通りでは流行の最先端或いは最高級で、かつ国際的なTPO(時、所、場合)に基づいた服装が見かけられる。

一方、裸足にスリッパをつっかけ、パジャマを着て、体にぴったりした薄ピンク色のメリヤスの脚衣あるいはただ半ズボンをはいただけの姿などが見られる。後者は、それが中国人全体のイメージを損なう低俗な行いとは思わず、かえって七十年代前の着装意識を持ち続け、このような服装をしても構わないと思われている。さらに「身なりには全く無関心」の意味合いがあり、格好がよい、わざとらしくない、大衆性を備えているなどの意識もあり、周囲の人もそれを黙認するというわけである。

また、背広を着用するのに、その着用ルールを知らない。例えば、新しい背広の袖やサングラスの上側についた商品ラベルをはずさずにブランドをつけている気分を示し、あるいは背広のボタンを全部かけてしまい、それをもって丁寧さを示すという具合である。さらに、背広の下のワイシャツは、ネクタイを締めないのに、白いワイシャツの衿ボタンをきちんと掛けている。これらのことは、中国人が背広の着用になれていないことを物語っている。

もうひとつのアンバランスな現象は、服装の西洋化が日増しに加速し、世界と軌を一つにするというスローガンの中で、中国の服装の優れた伝統がほとんど消失しかけていることである。国内外の有識者は、世界へ向かう趨勢の中で、これまでの、肉体労働者の服装への傾きを転換させるよう努力すると同時に、中国の伝統的な服飾文化を大切にしなければならないと声を大にして呼びかけている。


そこで、彼らは人々の先頭に立って、民間の祝日、たとえば旧暦の正月に、丸い花模様の緞子の小さな中国式綿入れを着用した。それは対外開放二十年にして、老若男女を問わず、Tシャツやダウン・ジャケットを着慣れた中国人に新鮮さを感じさせた。