清代及び中華民国の服装と背景

 清代の服装は、満州族が中央に入ってから強制的に推し進めた遊牧民族の服装であり、中国の服装変遷史の中でも変化のかなり大きかった一時期で、多くの遊牧民族の服の形と装飾を残した。例えば、「缺襟袍」「馬蹄袖」及び身体につけるナイフ、もの入れなどの飾り物は、みな明らかに水と草を求めて移動する生活習慣の痕跡を残しており、羽毛で作った飾りや、馬の形に削った女子のハイヒールなどは、更に深い大自然の味わいを帯び、中原地方の長きにわたる文人儒者のしなやかで上品な物とは大いに異なっている。

その形については、両民族(漢族・満州族)が広く頻繁に接触したため、その変化の過程の中で互いに浸透し融合しあった。例えば、袍が次第にゆったりしたものになった事などは、どのような政令でも止められなかったのである。

『清宣宗実録』に「我が朝廷には元来服装の規定があり、物資を大切にするだけでなく、行動するのにも便利なようにしている。が、最近八旗の女子が往々にして争って贅沢を見せる事から来るのだ」と記され、そこから見ると、民族間で服装が互いに影響しあうのは大勢の赴くところで、封建官吏も無力である。


 一つは、満州族の男子は典型的な遊牧民族の服装を守り、強制的に漢民族に服の制度を変えさせた事。二つ目は、漢民族と満州族とが融合し、封建末期の繁雑な物を追い求める芸術的風潮を生み出し、服装の縁、飾り物などの精巧で細かい物を尊ぶ事になった事。その他、太平天国軍は、自分の服装制度を持ったはじめての農民反抗軍となったこと、などである。

 清代の絹織物は残されているものが割合多く、故宮に残されている貴重な衣服のほか、世の中でもっとも多く見られるのは書画の表装と経典の表表紙である。

清の絹織物の芸術上の大きな成果をいえば、文様の題材を広くとり、配色が豊富で明るく、織り目が細かいので文様が生き生きとしている事である。幅が三メートル近くもあるいろいろな色の絹をおることができただけでなく、いろいろな服の形をした絹織物も織ることができた。


『紅楼夢』によると、沙羅だけでも数百種の色があったという。旦那、奥様達が全身に綺麗な絹織物をまとっただけでなく、側女や召使達も絹で服を作り、王煕鳳が「昨日、倉庫をあけてみると、大きな箱の中に明るい朱色の蝉翼紗(セミの羽のように薄い紗)が数匹もあり、また、色々な折枝の花文様のもの、雲とコウモリの文様のもの、色々な蝶々の文様のもの、色もあざやかで、紗も軽く柔らかく・・・』といった。賈母は笑いながら間違いを直して、『知らない物はみな蝉翼紗だと思うが、本当の名前は“軟煙羅”といい、ひとつは黒色、一つはカーキ色、一つは緑色、一つは明るい朱色」と言った。文様の中には写生した花鳥のほか、古い器の文様や、吉祥の図案もある。例えば「鼎彝」「琴棋書画」「八宝」「暗八仙」「如意牡丹」「福禄寿喜」などで、作りは細かく精巧で、色彩は濃淡の変化を重んじるものであった。


 19世紀末に、一部のブルジョア的改良主義者は連名で意見書を出し、変法維新を提案したが、その中に政治上の重要ごともあり、服装の習俗もあった。例えば康有為(1858〜1927年。清末の戊戌変法の指導者)は『戊戌奏稿』の中で「今は機械の時代であり、機械が多ければ強く、少なければ弱い・・・しかし、数千年続いた儒教の思想に基づくゆったりとした中国の服と広い帯、長いスカートにゆっくりとした歩み、それが万国が競争しているこの時代にまで影響を及ぼそうとする・・・まことに相応しくないことだ」と書いた。

そして「皇帝自身が率先して髪を切り、服を替え、天下の人々にともに髪を切るよう命じ、人民とともに再出発する事。あらゆる官吏に服を替えて朝廷に赴くよう命じれば人民もそれに従う事になる。全国をあげて武を尊ぶ気風が勃興し、改心の気風が満ちるだろう」と、皇帝に求めた。結局、支配者は警察と部隊の中でしか新しい服装を推し進めることはなく、各界の人々が勝手に服を替えることを許さなかった。しかし、留学生が外国を回って視野を広げるにつれて、背広、辮髪を着る事が必然的な流れとして出現した。

 清末の同治四年(1865年)に、清政府は日増しに没落していく封建王朝を救うため、学生を外国に派遣せざるをえなかった。光緒二年(1876年)には、また、海軍を学ばせるために、下級武官をドイツに派遣し、加えて中国には各国から、特にヨーロッパの侵略軍と商人がやって来ており、必然的に洋服が東へ伝わる趨勢となったが、しかし、皇帝にさえぎられて、大規模に服装の改革が行われることはなかった。留学生が帰国しても、やむをえずかつらの辮髪をつけて世論を避けるしかなかったが、辛亥革命になってから、ようやく徹底的に服装が改められた。機械工業が次第に盛んになるななるなかで、長く広い袖の衣服はなくなり、簡便な体にぴったりした物になった。それは服装情の大胆な革命であったに違いない。

一つは、男性の長袍と礼帽、西洋式のズボン、革靴といった、中国と西洋とが結合した一揃いの服装についてである。

二つ目は、八旗の女性の長袍を改良した、女性の体の美しいラインを表現する改良チーパオである。

 民国初期は、中国の人々が帝国主義にひどく虐げられた悲惨な時期であり、同時にまた、中国の人々が奮い立って対抗し勇敢に勝った壮烈な時代でもあった。清末から新中国の誕生までの間に、中国は急速にそして激しく変化し、政治、経済、軍事、文化の各面で、いずれも激しい戦いと同様の状態にあった。古いこと物は戦いの中で没落し、衰え滅び、新しいこと物が戦いの中で生まれ、発展した。この時期の服装は、新旧が交替し西洋文化が東へ流れてくる趨勢の中にあり、そのもっとも大きな進歩は、服装をもって等級を区別するという規定が帝制の没落とともに徹底的に消えてなくなったことにある。