北京城の歴史




中国語に今も使っている、県城という言葉がある。2000年以上前から、中国の地方行政単位は県であり、あまり大きくない、人口は2万〜5万ぐらいの町である。時代によって違うが、大体2000ぐらいだそうだ。

今日の中国ではこの県の大きいのが昇格して市になる。だから市の中に県がいくつも在るところがある。北京市の中にも、順義県・密雲県など10位の県がある。 日本とは逆。

で、その県というのは、日本と違うところはどこかというと、その県の周囲を土をつきかため、幅が数メートル、高さが十数メートルもある、分厚い、頑丈な城壁でとりかこんである。 これが県城「都市・町」である。この城壁に囲まれた中に、人々が住んでいるわけである。県より小さい、「鎮」 も城壁に囲まれている。 

だから我々日本人が考える城のイメージとは、全然ちがう。

例えば、杜甫の詩 「城春草木深」 を「しろはるにしてそうもくふかし」 とよんで、イメージとして、お城の天守閣に花が咲いてるようすを想像すると、だいぶ違ってくる。 「城春」は「長安の市街に春が来て」 という、ことらしい。

なぜ中国人はこのような県城を作りつい7、80年前まで生活しなければならなかった点は次回に書くとして、今回は初めて北京を訪れたひとが、必ず訪れる故宮、や紫禁城を見て、でっかいなー、広いなー、と思い感動して帰国してきますが旧北京城の全体を紹介してみます。




清代の北京城  西域からラクダの商隊が





 かっての北京j城もこのように城壁に囲まれた町でした。又北京は厳重に二つの部分に分かれています。内城と外城です。内城は、俗に言う北京城の部分で、9つの門がありました。この9つの門のうち、現存するのは正陽門(前門)という故宮の真南にある門と、徳勝門という北西のもんです。外城は、内城南に出っ張るような形の部分で、言ってみれば「下町」のような場所でした。
城壁図

老北京城門のビデオを見る

 また、城内と城外、城内でもその場所場所によって町の雰囲気が全然違います。内城は紫禁城があり、官僚なども住んでいただけあって、格式ばった雰囲気がありますし、外城は商店も多く、道も込み入っていて、なんとなく繁雑とした感じ。

その城壁は中華人民共和国「1950年代頃から」地下鉄を作る為、取り壊され、現在・北京地下鉄環状線です。

北京の地下鉄環状線は、ちょうど東京の山手線のように、北京旧・内城をぐるりと回っている市民の便利な足です。
 この環状線には駅が18ありますが、そのうちの11の駅の名の最後の文字は「門」で終わっています。

永定門 (1957年取壊)
左安門 (1953年取壊)
広渠門 (1957年取壊)
広安門 (1957年取壊)
上記・城外

 復興門「フーシーメン」駅から右回りに「門」の付く駅を拾ってみますと、宣武門「シュェンウーメン」、和平門「ホーピンメン」、前門「チェンメン」、崇文門「チョンウエンメン」、建国門「チェングオメン」、朝陽門「チャオヤンメン」、東直門「ドンジィメン」、安定門「アンチィメン」、西直門「シィジィメン」、阜成門「フチョンメン」、そして復興門駅にもどってきます。


 なぜ、こうも門が続くのか。そのなぞは、この地下鉄環状線が明・清の時代の北京を囲む城壁の地下を走っており、「門」の付く駅の地上には、城壁ありし日には城門があったからです。その後も城門の名だけは残って、そこの地名や駅名として、いまも脈々と生き続けているのです。


 城門、城壁が姿を消したと書きましたが、いまもありし日の面影を目にすることができる所があります。地下鉄環状線の前門駅で降りれば前門(正陽門の俗称)を、積水潭駅で降りれば徳勝門を、建国門駅で降りれば東便門の角楼を目にすることができるのです。このほか、復興門駅近くでも、明代の城壁の跡を見ることができます。


 お勧めは、東便門の角楼です。明、清の北京の城壁の角にあった四つの角楼のうち残っている唯一のもので、東南角楼というその名のごとく、北京内城の東南の角にそそり立つ四層の、高さ29メートルある中国風の砦です。


 角楼の横にはいくらか城壁も残っていて、前門とともに国の重要文化財に指定されています。ちなみに、角楼は明の正統元年(1436年)に築かれたものです。


 角楼は北京の街の美観に色を添えただけでなく、都を守る砦の役割を持っていました。現に、清の光緒26年(1900年)に、イギリス、アメリカ、日本、フランス……などの八カ国連合軍が北京に侵入したときも、この東南角楼が北京防衛の砦となり、ここで激戦が行われ、連合軍の放った砲弾の傷あとがいまも角楼の柱に生々しく残っています。アメリカ映画、「北京の55日」も参考になります







正陽門「前門」一部取壊
崇文門 (1968年取壊)
朝陽門 (1957年取壊)
東直門 (1965年取壊)
安定門 (1969年取壊)

 明代には、城壁の南の中央に正陽門(前門)、その左右に崇文門、宣武門が設けられ、城壁の北に安定門、徳勝門が、東に東直門、朝陽門が、西に西直門、阜成門が設けられていました。地下鉄環状線の駅名にある建国門や復興門は明代にはなく、その後、交通の便を考え、城壁に穴をあけて造った門です。


 明代には、こうした城門はそれぞれ役割の分担が決まっていました。正陽門は正に北京の表玄関で、皇帝や皇族たちが天壇に参拝に行ったり、地方に視察に出かけたり、郊外に遊びに行ったりする時に使う、いわば「御門」でした。


 また、崇文門は南郊外の酒どころから酒を運び込む門でした。大運河を使って南方から運ばれてきたお米を運び込んだのは朝陽門、木材を運び込んだのは東直門です。


 このほか、安定門は市民の糞尿を郊外の農村に運びだす門、徳勝門は軍用の門、西直門は西郊外の玉泉山から皇室用の飲料水を運び込む門、阜成門は西郊外の門頭溝炭鉱から石炭を運び込む門、宣武門は刑場に向かう死刑囚が通る門でした。


正陽門(現在の前門)も、明の正統4年に建てられた。北京城の正門であり、官僚たちはこの門を通って朝廷に参内し、退出した。また、葬列がここを通るのは禁じられていた



 いずれにしろ、地下鉄を降りて、それぞれの駅名や地名にちなんだ歴史の故事を思いだしながら、東に西に、南に北に、北京の街を散歩してみるのも楽しいものです。



 次に北京市を東西に貫く地下鉄一号線にも、天安門東駅、天安門西駅など、門の付く駅があります。天安門東駅か天安門西駅で降りて地上に出ると、北側には天安門が、そして南側にはギネスブックにも世界一広い広場と記されている44万平方メートルの天安門広場が広がります。



 明、清の時代にも天安門の前には広場はありましたが、こじんまりとした皇室専用の丁字型の小さな広場で、皇室のいろいろの儀式が行われていました。例えば、皇帝の即位や皇后の冊立のときには、天安門の楼閣の上の中央から、即位や冊立を告げる詔書を、木で造った金色の鳳にくわえさせて下に降ろします。これを広場に控えた文武百官がひざまずいて迎え、儀典を司る礼部の役人がうやうやしく捧げて礼部に持ちかえり、文書を作って全国に布告を出したそうです。





徳勝門 (一部保存)
西直門 (1969年取壊)
阜成門 (1969年取壊)
宣武門 (1965年取壊)


 1949年10月1日にはここで中華人民共和国建国の式典がおこなわれ、毛沢東が天安門の楼閣の上から中華人民共和国の成立を宣言しています。



 現在のような百万人入れる大広場になったのは1959年で、建国十周年の祝典を前に拡張工事が行われ、広場の西側の人民大会堂(日本の国会議事堂にあたる)、東側の中国歴史博物館も同時に落成しました。




 この一帯は、明代から清代にかけて天街とよばれ官庁街だったそうです。明代には、吏部(人事省)、戸部(財務省)、礼部(儀典省)、兵部(国防省)、工部(建設省)などがここに置かれていました。清代に入ると、刑部(司法省)もここに移ってきて、中国の封建国家の中央行政機関である六部、つまり内閣のすべての省庁がここに集中します。




復興門の明代の城壁遺構は、北京の内城の遺構である。内城は全長22キロ余りあり、城壁の高さは12メートルで、両側にレンガを積み上げて造られている







八宝文と八仙人文