中国文物真贋道中膝栗毛   法政大学名誉教授  犬飼和雄


一 チャイナ・ウォッチング店行


私は今では、我が家に「中国文化研究所」という看板をかかげ、それなりに資料がととのっているとひそかに自負しているが、それができたのは、甲府で、チャイナ・ウォッチング店という奇妙な名の中国の物を扱っている店とであうことが出来たからである。


 この店との出会いがなかったら、いくら私でも、「中国文化研究所」などという看板をかかげられなかった。手持ちの資料では気がひけてとうていそんなことはできなかった。


 私は中国の成都で、実はずいぶんと中国文物を、というと語弊があるのでいいかえると、中国文化に関するものを買い集めて日本へ送った。
 その中心となったのは本と書画だったが、それ以外にさまざまな陶磁器、青磁や白磁の、青花や粉彩の俑、盤、鉢、茶碗、皿、瓶、壷、水注といったものを手に入れて日本へ送った。ところがその大半は、特に大型のこれはと思ったものは無残に割れてしまった。私の包装がわるかったからで、その結果は惨憺たるものだった。

私はひどく失望したが、だからといって、成都へもう一度いって同じようなものを集めなおすことなどできない相談だった。なん年もかけ、文物市場で集めたものだったからだ。

 ただ一九九〇年頃、まだ日本には中国の物を扱っている店がところどころにあり、そうした中国屋を目にすると、割れてしまった俑とか瓶とか鉢とか壷とかいったものに相当するものはないかと捜したが、残念ながらほとんど見つからなかった。
 私はいつしか、もう失ったものはおぎなえないとあきらめるようになった。当然、当時、中国文化研究所などという発想はもちようもなかった。


 そうした折、甲府にチャイナ・ウォッチング店という中国ものを扱っている店があると、佳川文乃緒が教えてくれた。私と佳川は甲府に住んでいたが、私は甲府に中国ものを扱っている店があるかなど考えたこともなかった。

 佳川文乃緒は我が中国文化研究所の研究員だったので、といっても、その時はまだ中国文化研究所は存在していなかったので、幻人研究員だったが、幻人でも研究員であることにかわりなかったから、目ざとくチャイナ・ウォッチング店を発見してくれたのだ。

 「湯村にチャイナ・ウォッチング店というおかしな名の中国の物を売っている店があります。陶磁器が店からはみだすほどたくさんあります。一度ごらんになったらどうでしょうか。先生のお捜しになっているものがあるかもしれません。」と佳川がとくい気にいった。
 湯村というのは甲府の温泉街で、佳川はそこに住んでいた。


 私は佳川の話しをきいて、なるほど店の名はおもしろいが、なにしろ中国の物について感心がないどころかなにも知らない佳川文乃緒が目をつけた店だ、期待のもちようもなかったのでわざわざ足をはこぶのもと思ったが、佳川の好意を無視したらあとがこわかったので、私は下手にでていった。
「それでは、いつでもいいですから、その店へ連れていってください」


「それでは明日行きましょう」
「明日ですか」
「いけませんか」
「いや、いや、お願いします」
と私は明日行くほどの気はなかったが、佳川に頭をさげた。

1989年頃のチャイナ・ウオッチング

 チャイナ・ウォッチング店は、湯村の路地をちょっと入ったところにあったが、その店は、佳川文乃緒のいったとおりだったし、私の予想したとおり期待のもてそうもない店だった。少なくとも、第一印象はそうだった。


 植木鉢とか壷とか、安っぽい陶磁器が店の前まであふれていた。これでは入ってもしょうがないと二の足をふんでいると、かたわらから佳川がうながした。

「お店の中にはいろいろな陶磁器が山のようにあります。先生の気にいられるものも二つや三つではないと思います」
「そうですかね」,と私は佳川のあとから店に入った。

 なるほど棚どころか床にまでところせましと陶磁器がおかれていたが、私がまず目をひかれたのは、そうした陶磁器ではなく、店の奥で本を読んでいる男だった。

 その男は、私たちが店に入っても顔もあげなかった。髪を後でたばねた四十ぐらいの文学中年といった男だったが、店にはその男しかいないので店主にちがいないとは思ったが、それでも、私は初老の小太りの頭が禿げあがった、抜目なく客を値ぶみする店主を捜していた。

 そんな人物の姿はなく、文学中年はホンから顔もあげないので、私は店にあふれている陶磁器に目をやった。しばらくは漠然と目を動かしていたが、そのうちに私の右足の棚にいずわっていた唐三彩狗俑に、その説明札に目が吸いつけられた。


 その狗俑自体も今まで見たこともないものだった。それは高さが二十四、五センチの狗の座像で、耳と尾が黒く、首の周りには、黒と黄と緑と赤の服とまとっていた。唐の時代、もう狗に服を着せていたのかとあきれたが、その顔は、どこか人間と似ており気味がわるかった。それだけに興味をそそられたが、それ以上に興味をそそられたのは、その狗俑にそえられていた説明札だった。

 その説明札に「倣古品・唐三彩狗俑」と書かれていたのだ。倣古とはにせもののことである。

 それを読んだ時、私はまずまだ本を読んでいる文学中年に、ついで他の陶磁器に目をやり、他の説明札を求めたが、他には何一つとして説明札はついていなかった。

 ということは、この狗俑だけがにせもので、他は本物ということかと見回したが、私のかたわらに立っている高さ一メートルばかりの大きな唐三彩馬俑は、どう見ても新しいもの、偽物だった。

 その馬俑は「倣古品」という説明札をそえなくとも、一見して偽物だと分かるのでそんな説明札をつけないのかとも思ったが、そんな説明札をつけなければ本物にせものがわからないものなら、少なくとも私にはわからなかったが、何も偽物札など添えなくていいはずだ、いやそういうものなら狗俑は本物として高く売ればいいはずだ。


 私は黙っていられなくなった。私はその狗俑を両手でもって、依然として本を読みつずけている文学中年のとこへいった。
「すいません。ちょっと教えていただきたいのですが、どうしてこの唐三彩狗俑にだけ倣古品、偽物という説明札がそえてあるのですか。まさか他のものはみんな本物だと思わせるためではないでしょうね」

 文学中年がようやく顔をあげ、けげんそうに私を見た。一瞬、質問がわからないというように顔を振った。人の良いのんびりとした顔をしており、やはり商人ではなく文学中年で、その喋ったことも文学中年だった。

「まさか、そんな意図は全くありませんよ。そんな事でそんな風にだまされてくれるお客さんがいてくれたら苦労はないですがね。それよりもう長いことこの商売をしていますし、あの狗俑も長い事あそこでああしていますが、そんな風にかんぐられた事は、お客さんが初めてです」
「それならどうして偽物だという説明札をつけたのです」


「あれを中国から送ってくれた友人が、あの説明札を付けてくれていたからそのままつけておいただけです。他意はありません」
 その返事を聞いて、私は思わずそれでもあなたは商人ですかといいたくなったが、その一方で、私でもそんな説明札がついていたら本物だなといって売れないと、この文学中年の店主に妙に親近感を覚え、この店のものにそれなりに興味を持ち始めた。

「で、これはいくらですか」
「八千円です」
 私はその値段を聞いて、改めてこの店主を、この店を信頼した。ほかのものもこれに相当する値段だろう、
これなら私もこの店のものを買うことができるとわかったからだ。
「それではこれをいただきます」
と私が言うと、それまでそばで黙っていた佳川文乃緒があきれたように口をはさんだ。


「このような偽物の狗をお買いになるのですか。人間のような顔をした気味の悪い犬です。何のためにお買いになるのです」
「なんのためといわれても」
と私は言葉に詰まった。その時点では、中国文化研究所を作るために資料を集めようなど考えていなかったからだ。
「何のためと聞かれてもうまく説明できないが、これは珍しいものです。
服を着ている唐の狗、それが本物であろうとにせものであろうと、今まで見たことがないですよ」
「でも八千円は高いじゃないですか」
「六千円でいいですよ」
と店主がまけてくれた。


 私は金を払いながら、なかなか面白いものが手に入った、しかもにせものという説明札をわざわざそえて売っているとは、私にもできない、ここはおもしろい店だと改めて店主に目をやり、そういえばこの店の名前も変わっていたなど気がついて、店主に尋ねた。
「確かこの店の名は、チャイナ・ウォッチングでしたね。中国を見るという意味ですか」
「そうです。正確に言いますと、中国が、その文化が見られるもの、文物を扱っている店だというつもりでつけたのです」
「おもしろい名ですね」

「そうですか。私は中国に興味を持ちましてね、中国に留学していたのです。その後、日本にかえってきて、中国の物を扱う商売をしてみよう、どうせなら中国文化を紹介できるような商売をしてみようと考えたのです。そこで中国の友人に相談したら、
その中に景徳鎮で陶磁器を扱っている友人がおりまして、そうした品物を送ってくれるといったのです。ですからこの店には、
時々おもしろい物が入ってくるのです。」

「そうですか、よくわかりました。それで、このにせものの唐三彩狗俑のようなものがあるのですね」
と私は妙に納得し、いい中国店が見つかったものだとよろこんだ。
「だからといってにせもの狗俑があるわけではないですがね」
と店主は不満気に苦笑した。
 私はこのとき、他のものはほとんど見ないで、にせもの唐三彩狗俑を抱えて店を出たが、
そのときすでに、私はこの店に、この店主にはまりこんでいた。


 その後、私は暇があるとチャイナ・ウォッチング店に出かけていくようになった。店も私の期待にこたえて、山のような新しい陶磁器の影から、文物が、思いもかけない中国物が顔をのぞかせるようになった。もう成都の文物市場へ行く必要がない、それがわかってきた。

 しかもそれだけではなく、この店の文学中年の主人、保坂という名だが、この主人は、今まであった中国物を扱っていた店主とは全く違っていた。
特に文物市場の店主とは全くの別人だった。文物店の店主というのは、古そうなものであればすべて唐の物であり明のものだった。
まかり間違ってもにせもなどいう言葉ははかなかった。ところが保坂さんは、私の店に本物の文物が入ってくるはずがないと信じていた。
といっても、気に入ったものは自分の部屋で楽しんでいて店に出さないようなところもあった。
もちろん、そうしたものは、本物の文物と信じているようだったが。


 いずれにしても、保坂さんの店には古そうなもの、文物らしいものがいくつもあり、いくら店主の保坂さんにこれは本物かにせものかと聞いても、
保坂さんがまともに反応してくれないので、私がこれは本物かにせものかと孤軍奮闘するようになった。
また孤軍奮闘に値するだけのものがあったのである。
 私がチャイナ・ウォッチング店にかようようになってしばらくしての事だった。私はそれを棚で目をとめたとき、思わずうなった。


「うん、これはいい。今まで気がつきませんでしたが、これは前からここにありましたか」
と私は保坂さんに聞いた。
「いいえ、店に並べたのは昨日です」
「これは珍しいものですね。今まで見たこともないですよ」
「そうでしょう」
と保坂さんは同意を求めるようにうなずいた。
「これを一目見たとき、どうしてもそばに置いて一人で楽しみたかったのです。
時々そんな風に思うものが入ってくるのです。でも商売ですからね、いつかは店に出さなければならなくなるのですが、これもそうです」
「それはありがたい」
と私は思わず本音をはいたあとで、保坂さんの弱味につけこむようで申し訳ないと反省しながら、口の方は勝手に動いていた。
「で、これはいくらです」
 その値段を聞いたとたん、それはもう、わが中国文化研究所の陳列棚にちゃっかりとおさまってしまった。
このときはもう中国文化研究所が動き出し、棚を作って中国文物を並べ始めていた。

 これだけのものが手に入るとは、その威風堂々たる獅子が、今にも咆哮しそうだった。
私はこれだけの青磁を見るのは、初めてだった。その青磁は黄色みをおび、ところどころ摩滅して茶色っぽい地肌が露出していた。
明らかに長年使われていたもので、ことによるとこれは本物の文物かもしれないぞと、私はひそかに胸を躍らせた。
 それは、宋代か元代か明代かははっきりしなかったが、欲目には宋代の文人がししにまたがり、
獅子の頭上に立てられた柱を両手でしっかりとささえていた。その柱には二匹の龍が身体をくねらせて絡まっていたが、
その鉄片は、油を注入して灯心を差し込む油壺になっていた。なんともいえない見事な造形の灯、
青磁文人騎獅子灯というもので、しかもどう見ても古いものだった。

 私はこれを家に、もう半分は中国文化研究所になっていたが、もちかえり、机の上において暇があると、これは宋代のものだと鑑定できる証拠がないかと、本を調べたり、虫めがねでのぞきこんだりしていたが決め手を見つけることはできなかった。
 そのあげく、もう自分のものになったのだから、人の目にさらされる事はないので、私が本物だと鑑定すればそれで十分だと、私はそれから目をそらそうとして、ようやく遅まきながらそれが本物であるかどうか確かめる手がかりにたどりついた。

 これは、灯である、とである。

 私は夜に成るのを待ちかねて、文人が両手でしっかりと支えている竜柱のてっぺんの油壺にたっぷりと菜種油を入れ、太い木綿糸を灯心として油にしたし、十分に糸に油がしみたのをたしかめてからライターで火をつけ、部屋の電気を消した。

 鈍いねっとりとした火が、かすかな煤を上げながら次第に明るくなり、それとともに文人が、その顔が浮き上がってきた。
 まちがいなくこれは本物の灯、その火で浮き上がっている文人の顔は、毅然として厳しく、どこか清冽で清廉、私の目にはまちがいなく宋代の文人に見えた。私がその顔にじっと目をそそいでいると、その文人に誘発されたかのように、思いもかけないことばが口をついてでた。


   天地正気有り    雑然として流形を賦す   下は則ち河獄と為り    上は則ち日星となる


そのことばが口をついてでてから、ああこれは、文天祥の正気の歌だと気がついた。
 文天祥は宋を代表する文人、詩人で、その言葉が口をついて出たということは、この青磁灯が宋代の本物かもしれないとそこまで考えて、
それでは、文天祥の正気歌を冒涜しているようなものだと気がついて苦笑いした。
 文天祥は宋の滅亡を目前にひかえ、一人最後まで元と戦い、やがて戦いに負けてと捕らわれて汚く暗い地下牢に閉じ込められ、
降服して元に仕えるようにと強制される。しかし元に屈することなく、牢の中で正気歌をつくり、最後は殺された宋の文人の忠臣である。
 なおもその正気の歌が口をついて出た。

   或操冰東の   清帽となり操冰雪よりも獅オ   或は出師の表と為り   鬼神社烈に泣く

 といっても、だからこの青磁文人騎獅子灯が本物だとはあまりにも俗っぽぅてかえって口に出せなくなったが、
チャイナ・ウォッチング店には、私の口から正気歌を吟じさせるものがあるのだ、それだけはまちがいなかった。