中国文物真贋道中膝栗毛  法政大学名誉教授  犬飼和雄


                        十四、金神獣文温酒器


 テーブルの上におかれていたそれを目にとめた瞬間、私は信じられなくて「これは」 とうめいた。
 うめいてから、もう一度目をこらした。

 それが目の前に存在することがあるなど考えたこともなかった。私にとってそれは、あくまでも美術書の中だけのことだったからだ。  「これは」

と私はくりかえして、テーブルのむこうにすわっている保坂さんに目をやった。

「いやあ、すみません。片付けようとしていたところです」
と保坂さんが全く的はずれの弁解をした。

「片付けるですって、それはどうしてです」

「ごらんになられたからわかるでしょう。こんなかさぶたの緑青だらけのもの、どうしたって売りものにならないし、だからといって、この緑青をけずりとったら、それこそ表面はぼろぼろ、やはり売りものにならないからですよ」

「とんでもない、これはですね」
と私はかがんで顔をよせ、じっと目をこらした。
 まちがいなかった。

 それは『中国文物精華大辞典・青銅器』で見た、「?金温酒樽」そっくりだった。かさぶた緑青があるだけ写真のものより文物的だった。


 私がそのことを保坂さんにいおうとすると、たまたま一緒で、私のかたわらでそれを見ていた佳川文乃緒が悲鳴をあげた。

「先生、そんなに顔を近づけられた毒にあたりますよ。すぐにうがいをされてきた方がいいですよ」

 私は佳川の忠告どころではなかった。興奮して、そのずっしりと重厚な緑青を両手ではさんでだきあげた。
「先生は」
と佳川がいった。

「緑青が有毒だということをご存知ないのですか。保坂さん、こんなものはどこかにしまってくださいよ」
「そうしますか」
と保坂さんは佳川に同調した。

 私は二人になどかまっていられなかった。じっとそれに目をそそぎながら流金金温酒樽とそれを比較しはじめていた。

 ?金温酒樽というのは、円筒形の温酒器で、たしか円筒の直径と高さがどちらも二十五センチあまり、青銅に渡金したもので、その表面には動物が、牛や羊や猿や熊や駱駝などが浮彫され、その三本の足は熊にかたどられていた。緑青はどこにも見られず、漢代のものとしるされていた。私がそれをこのようにおぼえていたのは、それまでこのような温酒器を見たこともないほどめずらしいものだったからで、したがってそれに類する現物が目の前にあらわれるなど考えたこともなかった。


 それが、今私の両手の中にあった。しかも私の両手の中のものは、平凡な動物文ではなかった。
 その文様は、緑青に首をくいちぎられたり、腹に穴をあけられたりしていたが、虎であり鳳凰であった。

 私はもう手からはなしたくなかったので、咳込みながら保坂さんにいった。

「しまうなんてとんでもないですよ。私が買います」
 佳川が黙ってはいられないというようにいった。

「これは毒のかたまりですよ。そんなものをお買いになるのですか。これを買うということは有毒の緑青を買うということですよ。わかっていらっしゃるのですか。私なら保坂さんがただでくれるといってもことわります」

「なんならその緑青をけづりとりましょうか」
と保坂さんが佳川のことばをきいていった。

「とんでもないですよ。私の買いたいのは緑青です」
と私はあわてて保坂さんのことばをうち消した

「なんのために緑青などをお買いになるのです。緑青を買う人がいるなどきいたこともありません」

と佳川はあきれたようにいった。佳川には緑青しか目に入っていないようだった。いくら緑青の価値を佳川に説明しても時間の浪費だと気づいたので、私は保坂さんにいった。

「これはいくらです」

「一万円ではどうですか」

「えっ、この緑青が一万円ですか」
と私は、侮辱、といっても私がではなく、緑青が安っぽく侮辱されたので、思わず声を荒げた。

「そうです。緑青が一万円ですなんて」
と佳川が怒ったようにいった。佳川がなにもわかっていないのは当然として、保坂さんまでわかっていなかった。

「それなら八千円でいいですよ」

「八千円ですか」

と私がげんなりしていると、そんな私のげんなりに保坂さんが追い討ちをかけた。
「まだ高いですか。それなら先生のいわれる値段でいいですよ」

「先生はいくらでお買いになりたいのです」
と佳川が口をはさんだ。

「こんな緑青をいくらでお買いになるか知りたいものでわ」

 私がその値段をいったら、佳川とまたひと悶着だし、それに安いにこしたことはなかった。

 私は急いで、ポケットから一万円札を取りだして保坂さんに渡した。保坂さんは二千円のお釣を払おうとした。一万円で買っても保坂さんをだましているようでうしろめたいのに、その上、二千円までだましとるこてゃできないので、二千円は保坂さんに押しかえした。

 それを見て、佳川がいった。
「そんなものに一万円もだされるのですか、またどうしてです」

 もうこれは保坂さんの手をはなれて私のものとなったので、私は本音をはいてもさしつかえないと思ったので、佳川にいった。

「佳川さんにはわからないでしょうが、これはひょっとするとひょっとするになるのです。そうなったら、もう一万円どころではないのですよ」
「ではいくらになるのです」

「そのなん十倍、いや、なん百倍にもなるかもしれないのです。私が保坂さんでしたら、いくら安くても、五倍、六倍の値段をつけます」

「先生は生活がかかってないからそんな値段をつけられるのです。私がそんな値段ばかりつけていたら、棺桶を用意しなければならなくなります」
と保坂さんが苦笑した。

「でもですね、それだけの価値があるかもしれませんよ」
「どうしてです」

「まずこの緑青です。これはまちがいなく本物です。しかもですね、これほどかさぶたになるには長い年月が、二千年ぐらいは、ともかく長い年月がかかっているのはたしかです。この緑青を頭に入れて、この文様を見ると、私なりに一つの答が、求められるのです。

 私は前に中国文物の写真集を見たことがあるのですが、その中で、漢代のものだという?金温酒樽というものが目にとまりました。今まで見たこともないめずらしいものだったからです。円筒形の温酒器で、高さが二十五あまり、円筒の直径も二十五センチあまりで青銅に渡金したもので、上部の中央にまるい蓋がついていました。そのようなものが、今日の今日まで私の手の中に入ってこようと思ってもみませんでした」

「そういうものですか。でもこの緑青ではなんともいえないでしょう」
と保坂さんがあらためて私の温酒器をのぞきこんだが、別に安く売って残念だという顔をしていなかった。

 私は少しいきごんで説明をつずけた。
「これはですね、写真のものよりひとまわり小さいのですが、すごいのはこの文様ですよ。ここに浮彫されているのは、虎、そしれこれは鳳凰、そして三本の足は怪獣です。それよりなにより、円筒の前後に、殷の時代にさかんに描かれた悪魔払いの怪獣、目をむいた怪獣、●餐が浮彫にされています。明らかにこれは怪獣文になっているのです。つまりですね、私の温酒器の方が、はるかに中国の古代です。そう思いませんか」

「でも、緑青のかたまりですよ。わかりません」
と佳川がうんざりしたようにいった。

「なにがわからないのです」
「先生のことがですよ。そんなものを大事そうにかかえて、そんなふうに熱心になっていられる先生のことがです」
「私のことなど今はどちらでもいいのです」

と私はいい、佳川など相手にしているとかんじんのことがぬけてしまう、というより、私の温酒器がかんじんのことをしゃべらなければだめじゃないかと私にいっているので、私は保坂さんにむかって説明をつずけた。


「それにですね、この緑青の間に金色にかがやいているこの地肌は金のように見えます。もしこれが金なら、にせものを作るのに本物の金など使用するはずがないので、これは正真正銘の文物だということになります」


「これが本物の金だというのですか。金にこんな緑青がふきだしたりはしないでしょう。どう考えても、金の渡金されたものが私の店になんぞまぎれこんだりはしませんよ。それにそんな風格のある神獣文温酒器なら、それこそにせものが作られるでしょう。先生のように考えられて買う人が多いからです」
と保坂さんは皮肉るようにいった。

「でも、この地肌の金色のものが本物の金だったらどうされます」
「どうされるといっても、それはもう私のものではないのですからね」
と保坂さんは肩をすくめた。

「ともかくですね、私がこの店で手に入れたものの中で、これは一、二をあらそう逸品です。これこそ掘りだしものです」

「だいたいこのお店にこんな掘りだしものなどありませんね」
と佳川が保坂さんに同意を求めた。

「そうですよ」
と保坂さんはうなづいた。

 私はその時、佳川が首にかけている金のネックレスに気がついた。
「佳川さんのそのネックレスはたしか金ですね」
「そうです」
「それならですね、それが金だとどうしてわかるのです」

「二十四金と書いてあるからです。それにこれは信用のできるお店で、高い値段でかったから金だとわかるのです。そういうお店では、にせ金のものはにせ金として売っています。保坂さんがそれを安く売ったのですからその正体はしれています」
と佳川が自信ありげにいった。

「だとすると、保坂さんがこれに二十四金と刻印を押し、高い値段をつけたら、これは本物の金だということになるのですか」

「保坂さんはそんなことをされなかったので、それはそれだけのものでしょう。有毒な緑青のかたまりにすぎないですよ」

 佳川には文物など見えないのだ、見えるのは緑青だけなのだ。佳川とは長い付合いなのに、やっとそのことに気がついて、私は口をつぐんだ。

 それはともかく、にせものではないかもしれないのを、私はにせもの値段で手に入れたことだけはまちがいなかった。
 いずれにせよ、今はその流金金神獣文温酒器が、というよりその緑青が、我が中国文化研究所で、中国古代を誇っている。が、私がその中国古代と顔をあわせるたびに、古代が早く金を証明しろと私に迫ってくる。

 迫られたまま、もういたずらに一年以上もたっており、私は証明の糸口もつかめない。これが金だったらと、いや、金に違いないと自分に思いこませようとしているだけだった。