蛍光X線金属分析器    法政大学名誉教授   犬飼和雄


 絵本を読むという会に出席すると、小さなイタリアンレストランの会場は当然のことながら女性ばかりだったが、その中に背広を着た学者ふうの中年の男が異物のように席を占めていた。こんな会にどうしてこんな男が出席しているのだろうと、私は好奇心をそそられながら、そのとなりに腰をおろした。といってもなにかを期待したわけではなかった。ただおかしな男がいるものだと思っただけだった。


 それでも私はその男となに気なく言葉をかわしていると、男はおかしかった。おかしな自己紹介をはじめた。

「私は東工大で原子物理を教えている服部というものです」

「はあ」

と私はききちがえたのではないかと思わず男の顔に目をやったが、男はにこりともしないで妙に生真面目な顔をしていた。

 私はよほど原子物理の先生がどうしてこんな会に出席しているのかとききたくなったが、そういえば私自身だって同じようなものだと気づいてそうはきかなかった。

「絵本がお好きなのですか」
と私はいった。
「いえ、別に好きではありません」
「そうでしょうね」

と私は納得したが、私はただ世の中には変な学者もいるものだと納得しただけのことだった。だから服部教授の次の自己紹介のつずきをきいても、同じように納得できた。

「私が今興味をもっているのは古九谷です」

「はあ」
と私は今度こそ納得した。おかしな学者がいるものだとである。私のような常識的な人間にできることといえば、納得することだけだった。

 それでもきかずにはいられなかった。
「古九谷というのは、あの九谷でつくられたはなやかな色絵の磁器のことですか」

「そうですよ」

「あれを集めていられるのですか。高いものでしょう」

 私にも古九谷が方外な値段のもので、私などが手をだせないものだというぐらいのことはわかっていた。この教授もにせものをつかまされているにちがいないと他人ごととは思えなかった。

 服部教授があわてて私のことばを打ち消した。

「集めるなんて、とんでもないことです。一つだって買えません」

「だとすると興味をおもちだということは、なにに興味をおもちなのですか」

「うわぐすりにですよ」

「うわぐすりですか」

と私はあっけにとられたが、絵本を読む会に出席している原子物理の教授だ、おかしいことなんぞこれっぽっちもないなとまたまた納得したが、それでもうわぐすりの興味とはなんだと、黙っていられなかった。

「うわぐすりのなんに興味をおもちですか」

「その成分にですよ」

「うわぐすりの成分ですか。釉薬の成分ですか。その成分になにか問題でもあるのですか」

「その成分を分析しますとですね、その成分からその古九谷が本物かにせものかわかるのですよ。でも、ですから、古九谷をもっているところでは分析させてもらえないで困っているのです」


 服部教授がふわっと私の土俵にあがってきた。私は思わず体をのりだした。

「釉薬成分の分析というのは、つまりは金属成分の分析ではないですか」

「そうですよ。その金属成分の比率から古九谷であるかどうかがわかるのです」

「ということはですね」
と私は意気ごんでいった。

「鉄とか銅とかの成分の比率までわかるのですか。どうしてそんなことがわかるのです」

「ケイコウエックス線を使えばできるのですよ」

と服部教授は私ははじめてきいた光線を口にした。私にはその光線がどんなものかわからなかったが、そんなことはどうでもよかった。
「するとですね」

と私はすでに流金金神獣文温酒器の金色の地はだにとりつかれていた。

「金や銀も分析できるのですか。その光を使ってです。例えば青銅器がどんな金属からなりたっているのか分析できるのですか」

「やったことはありませんが、その成分の分析はできると思います」
 私はだめでもともとだと思いながら意気ごんでいった。


「実はですね、私は青銅器をもっているのですが、それがどんな金属からなりたっているのか知りたいと思っているのです。とりわけ、一つの青銅器、その地肌が金色のものがあるのです。もしそれが本物の金なら、その青銅器は本物だと考えているのです。

古九谷の釉薬の分析がだめでしたら、私の青銅器の金属の分析をしてもらえませんか。古いことにかけては、古九谷など青銅器の足もとにもおよびませんよ」

「そうですか、おもしろそうですね。携帯用の蛍光X線金属分析機を作れば分析できますよ」

「その機械はおもちではないのですか」
と私はちょっと失望した。

「今はありませんが、作って作れないことはないですよ」

「できたらお願いしたいのですが」


 そこで絵本を読む会がはじまったので、蛍光X線金属分析機は文字どおり画餅にきしてしまった。会が終わっても服部教授と話す機会はなかった。ただ私は、私の電話番号だけは服部教授に伝えておいた、といって、こんな絵本の会の雑談にすぎないものを当にできるものではないとわかっていた。だが、話だけでも、私は十分に心をそそられて満足していた。

 いうまでもなく、服部教授からはなんの連絡もなかった。三日目の夜になると、私の頭から蛍光X線金属分析機なるものは砂上の楼閣になっていた。夜の十時ともなれば、そうなっても当然のことだった。

 その夜の十時半頃、電話のベルがなった。こんな時間にだれだろうと電話にでると、服部教授のはずむような声がきこえてきた。
「金属分析機ができましたからこれから行きます。一時間後になります」

「本当ですか、お待ちしています」
私の声も服部教授以上にはずんだ。

 私はただちに獣文温酒器と、それからもう一つ、その銀がにせものであると確認したい小型の中国文物をテーブルの上におき、服部教授というより、その金属分析機をただひたすら待ちつづけた。

 その小型の中国文物というのは、これもチャイナウォッチングで、温酒器より二年近く前に手に入れたもので、これも保坂さんは私ににせもの値段で売ってくれたものだった。

 それは青花磁器の合子で、掌にのるくらいのものだったが、その本体も蓋も精巧な銀色の金属の竜や鶏で飾られていた。本体の底はその金属でおおわれ、そこに光緒と銀という文字が刻まれていた。清未のもので銀製だというのである。
 保坂さんは、銀もにせものだし、青花合子もにせものだと頭からきめつけていたようで、だから私はやすく手に入れることができたのだ。ただ私はこれを手に入れたと時、この金属が銀でなかったら、この銀飾合子は文物として本物だと考えたのである。しかしそうは考えたが、金より銀の方がその真贋をたしかめるのははるかにむずかしかった。銀色の銀に似た金属が多いからである。

 私が銀がにせものなら、この合子は本物の文物だと考えたのは、その一つは、銀という刻印であった。元来、現在でも銀に二十四銀とか十八銀とかいう刻印は押されていない。それをことさら銀と刻印されているのは、銀ではないからだと考えたのである。いうまでもなく、金を使用した中国文物には金という刻印など押されていないのである。

それだけではなく清の時代、銀は金と並び称せられたほど高価のものだった。ところがこの合子の内側の底にはポルノが描かれていた。その趣味がどことなく通俗的で、このようなものに本物の高価の銀など、清末のものに使われるはずがない、だから、にせもの銀なら清代のものといえる、つまり、本物文物だと考えたのである。しかしそれがどうしたらにせもの銀と証明できるのか、私にとっては本物銀以上にむずかしい問題で、今日まで手づかずのままだったのである。ある意味では、本物金以上に興味をかりたてられていたのである。それに服部教授の金属分析機が、これをにせもの銀と分析したら、その分析機を信用できると考えたのである。私にはその分析機の原理が全くわかっていなかったからである。


 分析機が我が研究所に到来したのは、十一時をだいぶまわってからだった。

「ようやくこの蛍光X線分析機ができあがったのです。これを金属に照射すれば、それがどんな金属だとか、どんな金属の合金だとかいうことがわかります」

と服部教授はいい、その分析機をテーブルの上に組みたてた。

 私は銀飾合子の底の銀の刻印を分析機にむけると、服部教授がスイッチを押し分析機が光を発射した。もちろんそんな光が見えたわけではなかったが、発射するとすぐに、分析機に接続されたパソコンの画面に波状があらわれ、その中の二カ所が高くもりあがっていった。

「千秒あまりするとッ成分がはっきりします」
と教授が画面をにらみながらいった。千秒とは何分かと計算していると、もりあがった波がさらに高くなった。

 十分あまりすると、教授が二つの波を指さしながらいった。

「この波が鉛で、次のが錫です」
「銀は」
と私はきいた。

「全く認められませんね」
「そうでしたか」

と私は私なりに納得し、あとは口中でつぶやいた。やはりこれはにせもの銀だった。したがって、この銀飾合子は合金合子で、本物文物だったのだと。同時に、服部教授のこの金属分析機は信用できるぞと。

「銀は全く使われていないのですね」
と私は念を押した。

「そうともいえないでしょう。文字としては使われているからです。でも、私の分析機は文字の分析はできません」

と服部教授はにこりともしないで皮肉った。

 ともかく、私はその機械さえ本物だとたしかめられれば満足だったので、すぐに本番にとりかかった。

「これを、この金色の地肌の部分の金属をたしかめてください」
と緑青温酒器を分析器のまえにおいた。

 ふたたび波形文様がパソコンの画面に姿をあらわしたが、そのもりあがって高い波は、その位場が銀飾合子のとはだいぶちがっていた。

「ここは銀ですが、その右のは、これは明らかに金です」
と教授が当たり前のようにいった。

「まちがいありませんか」
と私は息をのんだ。


「まちがいありません。しかも金がふんだんに使われています」

「そうですか」

と私はいいながら、我が中国文化研究所にしばらくは酔いしれていたが、すぐに、次に私のすることはなにかと気がついた。しかし教授とちがって、さすがにこんな時間にでかけていくわけにはいかなかった。


 その日、というのは分析が終わったのはもう十二時をまわっていたので、はやる心をおさえて、常識的に、昼食をとってからチャイナウォッチング店にでかけていった。

 店についたのは一時ちょっと前だった。
 保坂さんは例によって、テーブルのまえにすわってタバコをのどかにくゆらせていた。

 私は保坂さんの前に立ったままいった。

「あの緑青の金色のものは、本物の金でしたよ」
声が思わずはずんでいた。

「緑青の金色のものとはなんのことです」と保坂さんから思いもかけない返事がもどってきた。

「ほら、一年ほど前に緑青だらけの円筒の器を買ったでしょう。あれですよ。あの時、緑青の間の金色の部分が金ではないか、金だったら、あの円筒は本物文物だと私がいったものですよ」

「はあ、そんなものがありましたかね」
と保坂さんはとぼけたようにいった。

「私が八千円で買ったものですよ。それが本物の金だったのです」

「そういえばそんなものがあった気がしますが、今さら金だ銀だといわれましてもね、もうこの店のものではないのですから」
と保坂さんはただタバコをくゆらせていた。私はだましたように八千円で買ったうしろめたさが煙のように消えてほっとしたが、それでも黙っていられなかった。

「あのようなものがあるこのチャイナウォッチング店は、日本に二つとない店ですよ。すばらしい店です。こここそ、ウォッチング・チャイナ店です」

「は、あ」

 それが保坂さんの返事だった。

 その保坂さんのまわりには、当然のことながらいまだににせもの中国文物があふれていた。