中国文物真贋道中膝栗毛  法政大学名誉教授  犬飼和雄

     二  コンロやかん品水行

 成都の文物市場で何かめぼしいものはないかとさまよっていた時、地面に新聞紙を広げ、明らかに新しい青花の瓶や皿や茶碗を売っている店があった。その店の店主は、中年の太った女だった。普通このような店は通り過ぎてしまうのだが、私はこの店の前で足をとめた。ひとつだけ、私の目をひくものがあったからだ。

 私の目がひかれたものというのは、まるい球のような急須ともやかんともいえるもので、全体が半円形の波型文と魚文でおおわれていた。その注ぎ口が虎で、虎は牙をむいていた。蓋のつまいは小さな犬で、取手が猿になっていた。この三匹の動物はのんびりした顔をしていたが、それよりもこの急須だけがどこか古めかしくて文物めいていた。

 私はその店の前に座り込むと、何気なく、蓋のつまみの子犬をつまんで蓋を取って中をのぞこうとした。
 すると思いもかけないことがおこった。
 急須そのものが、ふわっと新聞紙から浮き上がったのである。反射的に、私は虎の首を左手で押さえ、右の指で子犬が悲鳴を上げるほど強くひっぱった。
 蓋はそれでもびくともしなかった。

 そこでようやく気がつき、ふたにめをこらすと、ふたはふたでも、急須の上部表面にまるく青い線で描かれたものだった。これではいくら引っ張ってもふたが開くわけではなかった。ということは、この急須は何処からお湯を入れるのだ。そうか、牙をむいている虎の口からかと虎の口をのぞきこむと、くちはあったものの、こんな小口からお湯を入れたら火傷をするのがおちだ、それにお湯を注ぐにも小さすぎると、私の目は混乱し始めた。
 だとすれば、この急須はなんなんだ、ただの置物にすぎないのかと、私ははぐらかされたような気がして立ち上がった。
 すると、それまで黙って私を見ていたどこか愚鈍そうな女店主がたまりかねたようにいった。

「底ですよ」
「えっ、底ですか。底がどうしたというのです」
と私はまだ女店主の言葉がわからなかった。
「ともかく、底を見てください。逆さにして底を見てください」
と女店主が言った。
「底ですか」
と私はいってから、逆さにしてその急須の底を見た。
 底の中央に直径一センチばかりの穴が開いていた。それを見てどうしてこんなところに穴があるのだとは思ったが、何の穴かは見当もつかなかった。
「この穴はなんですか」
と今度は私が愚鈍質問した。
「わかりませんか」
と女が得意げに笑った。
「わかりません」
「その穴がお湯を入れる口ですよ」
「えっ、底の穴が口ですか」 
「そうですよ、底からお湯を入れて元に戻すと、お湯が中におさまってこぼれないのです」
「本当ですか」
と私は信じられなかった。近くにお湯か水でもあったら今すぐにも試したかったが、それにしてもこの急須、本物偽ものにかかわりなく、ともかく、欲しくなった。そうした私につけこむように、女店主がいった。

「これは清朝のものです。やすくておきますよ」
 そういわれると、この青花の急須、いかにも古そうだったし、それより何より、底からお湯を入れるというそのこった造りに強くひかれるものがあった。

 この青花波魚文底口急須はさいわい割れずに日本に着き、現在わが中国文化研究所におさまっているが、それを買って成都の私の部屋に持ち帰ったときから、どうしてこんな奇妙な急須を作ったりするのだろうとか、何度も底の口をのぞきき込んだり、底から水を入れたりしたものだった。が、どうしてもこの急須の目的がもう一つ納得できなかった。

 ところがさすがにチャイナ・ウォッチング店である。それは新しい桃の形をしたものであったが、この底口急須が店におかれていたのである。
 私は早速、保坂さんにいった。
「この急須、どうして底に次口があるのですかね」
「さあ、遊びじゃないですか。置物としてはおもしろいと思いますよ。それに大きさからは急須ですが、お茶の葉は入れられませんから文房四宝の水差しといったほうがいいかもしれません。」
と保坂さんはいった。
 それにしても中国人は面白いものを作ると、私は底口急須を見るたびに引かれるものがあったが、残念なことは、チャイナウォッチング店の青花桃形底口急須を手に入れそこなったことである。

 ある日、私がチャイナウォッチング店に入っていくと、保坂さんがぼそっと立ち上がった。手にやかんのようなものをもっていた。

「このようなものがはいりましたよ」
と保坂さんはいい、そのやかんのようなものを私のほうへ突き出した。
 近くへよって目をこらすと、ぶ厚い真鍮製のやかんで、あの底口急須より一回り大きいものだった。最もやかんといっても手の込んだもので、今までこのようなやかんは見たこともなかった。

「これはやかんですよね」
と私はいった。
「このようなやかんは見たことがありませんが、真鍮の手作りのやかん、それにしてもこれは」
と私はそのやかんに目を吸いつけられた。

 実用的であるはずのやかんに、これほどの彫刻文様をほどこすとは、私には納得できないところがあった。
 やかんの胴の側面には、五言絶句が二首、この二首の間の空間には、長方形の枠があって、その中には、のどかな田園風景が描かれていた。その一つは、水牛に乗ったあどけないよう幼童が笛を吹き、それを老夫婦らしき人物がほほえましく見守っている山麓の風景である。他の二つの風景も同じようなのどかな田園風景である。

 その絵の人物はいずれも弁髪ではなく、ということは清前の人物で、それにこれは真鍮製なので明代以前だということはないので、ことによるとこのやかんは明代のものかもしれないぞと、そこで私の視点は本物偽物だけにしぼられ、他の所を見る注意を失ってしまった。もっともこれはやかん、これ以上見てもしょうがないというのは、当然といえば当然であろう。

「これはいつ頃のものですか。この絵の人物達の頭は弁髪ではないし、着ているものも清以前のもの、それに真鍮製なので、これは明代のものですかね」
「さあ、年代についてはなんともいえませんが、古いものであることは確かです」
と保坂さんは例によって私をはぐらかして笑った。
「それはともかくおもしろいものでしょう」
「そうですね、やかんにこれほどこった彫刻文様をつけるなど、いかにも中国的です。しかも詩が二つも書かれています。そうか、この詩の年代がわかったら、このやかんの年代がわかりますね」
といって、私はあらためてその詩を目で追い始めた。その次は、次のようなものだった。

客去波平   蝉休露満枝   永懐当此節   倚立自移時

 しかしこの詩ももう一つの詩も時代を示すような言葉は何処にもなく、私は明や清の詩はほとんど読んだことはなかったので、この詩から年代をたどる事は無理だとわかって、私はがっかりした。
「せめてこの詩がいつ頃のものかわかったらこのやかんの正体がつかめるかもしれないのですがね」

と私は保坂さんにいった。
「詩ですか。私には読めませんよ」
と保坂さんはそんなことはどうでもいいというようにいった。
「それより、おもしろいやかんでしょう」
「確かにおもしろいですよ。やかんに詩が二つも刻まれているのですから」
と私は保坂さんがなにをいっているのかわからないまま、なんとなくちぐはぐだなと思った。
「詩じゃないですよ」
「えっ、詩じゃない、それではなんです」
と私は馬鹿みたいにいった。
「わかりませんか、これですよ」
と保坂さんはやかんのどうの下部にある花模様を指した。
「これは花模様でしょう、これがどうかしたのですか」
と私は見てもまだわからなかった。
「よくごらんになってくださいよ」
 私は保坂さんにそういわれて、やかんを手にとり、その花模様をのぞきこんだ。
 それは直径三センチばかりの円で、その中に小円が花のようにつらなっているもので、その小円は中が黒かった。そこでようやく気がついたが、それでもまだ自分の目が信じられなかった。
「まさか」
と私は思わずつぶやいた。
「そのまさかですよ」
と保坂さんがいった。
 その小円の黒い部分は穴だった。やかんに穴が開いているのだ。しかも、その円形花文用が四つもあった。これではこのやかんに水を入れたらそのまま流れ出して何の役にも立たない。
 しかもそれだけではなかった。
 注ぎ口の反対側のどうの上部に、直径一センチあまりと小さくはあったが、円の中に菱形文様があり、黒い部分はやはり穴だった。
 私は思わず保坂さんの顔を見ながら行った。

「このやかんは穴だらけだ。ということは、これは形はやかんでもやかんではない」
「いえ、穴が開いていても、やはりやかんですよ。ですからおもしろいのです」
「おもしろいですか。確かに穴が開いていてもやかんだったら、それはおもしろいですよ」

と私はまだうかつにも何も気がつかなかった。それより、私が一人で文物市場やこのチャイナ・ウォッチング店で、自分だけの目でこのやかんの模様を見たら、その黒い部分が穴だなどきがつきもしなかったはずだ。
「それでもこれはやかんです。まだわかりませんか」
「わからないな」
と私は首を振ったが、これでは自称中国文物鑑定家、全くのかたなしだった。
「それでは、そのやかんをかしてください」
と保坂さんがいったので、やかんを保坂さんに渡した。
「これですよ」
と保坂さんがいい、やかんの底を左に回した。
「あっ」
と私は叫んだが、まだわかったわけでなかった。
 やかんの底板がポロリとはずれたのだ。
 やかんの底がはずれる。私は手妻でも見ているように息をのんだ。いや、それは、私にとっては文字とおり手妻だった。

 しかも、そのはずれた底板は、ただの底板ではなかった。その底板の上には、高さ二センチ、直径七、八センチの円筒のようなものがついていた、いや、はめこんであり、その上部に直径一センチあまりの穴が開いていた。
「これはアルコールランプ、いや、コンロを内蔵しているやかんだ。だから煙突がわりに穴が開いているのだ」
とさすがにわかった。
「そうですよ。ちょっと見には全くわからないでしょう。そこがおもしろいところです」
と保坂さんがいった。
「私が1人だったら、穴が開いているところまではわかっても、このコンロまではとうてい発見できないですよ」
と私は保坂さんに、チャイナ・ウォッチング店に脱帽した。
「見事なものですね。このようなものを仕入れてくださって、感謝感激です」
「それはそうと、どうしてこんな手の込んだやかんを作ったのですかね。これは家の中ではなく戸外で使われたものでしょう。それにしても、こんなこったやかんを誰が何のために必要だったのでしょうかね」
「そういえばそうですね」

と私もわからなかったが、ここで注ぎ口に蓋がついており、煙や煤が入らないようになっているのに気がついた。底まで神経を使ってお湯を沸かす、これは何だ、それが実感だった。
 私はあらためてこのやかんをながめ、その実在意義を模索し始めた。
 二首の五言絶句といい、三つの見事な田園風景といい、穴まで花模様になっているこりかたといい、全体のどっしりした風格といい、これは特別の人間が使ったものらしいとはわかったが、まだ、その特別の人間が誰かは検討がつかなかった。

 すると、かたわらで保坂さんがいった。
「一体、このやかんは、しょせんやかんですから、お茶の為に作られたはずですが、これほどのものを作るというのは、どういうことでしょうね」
「そうですか、お茶ですか。そういわれてみると、このやかんが中国茶道には欠かせないような気がしますよ。なるほどそうですか」
と私は、やっとこのやかんと中国茶道が頭の中でむすびつき始めた。
「中国茶道といいますと」
と保坂さんがいった。
「ヒンスイですよ。ヒンスイにこのようなやかんが欠かせなかったはずです」
「えっ、ヒンスイ、それはなんですか」
「しなものの品に水をつけて、ヒンスイと呼んでいますが、中国茶道はこの品水なしでは語たれないのです。品水とは、お茶に適した水という意味で、ことによると、ヒンスイの重要性をくどいた陸羽がこのやかんを使っていたのかもしれないな」

と私はそこまで口を滑らしてさすがに言い過ぎたことに気がついて、思わず手をふった。陸羽は唐代の人物、そんな時代に真鍮などなかったからだ。それでも、真鍮の時代、明や清の茶人がこのやかんを使ったのはまちがいないと思った。
「陸羽という名は聞いた事があるようですが、なにものでしたかね」
と保坂さんがいった。
「陸羽というのはですね」
と私は記憶をたぐりながら語った。


 陸羽というのは唐代の茶人で、茶聖とも呼ばれている人物である。「茶経」という茶に関する本を残しているが、その内容は一言で言うと、いかにして茶をうまく味わうかということである。
 その目的の為に、主として二つのことを説いでいる。
 一つは良茶を求める事であり、もう一つは品水といい、茶に適した良い水を求める事である。陸羽はこの二つを求める為に各地を訪れている。ことに水を求めて各地の泉を訪れている。当然のことながら泉は山間僻地にあり、当時、その水を町まで運べば途中で水が変質してしまうので、泉のほとりで味わう、お茶を立てるしかなかった。そのためには、コンロを内蔵したやかんが必要であった。しかも、煙や煤がお湯に混ざらないようなやかんがである。そのためには、今私の目の前にあるコンロ内臓やかん、それもお茶を立てるのにふさわしい風格をそなえたやかんが必要だったはずである。残念ながら、陸羽は「茶経」の中でやかんについてはなにも語っていないが、それは自明の必要品だったからであろう。

 いずれにしても、唐代でも、その後の宋や明、清代でも、お茶のための泉の良水を求めたが、山中の泉の良水を変質させずに町まで運ぶことは出来なかった。当然、泉の良水でお茶を入れるためには泉までいって、そこでやかんでお湯を沸かしてお茶を入れたのである。
 これがそうだという話に次のようなものがある。この話の主人公の茶人が皇帝なので、他の茶人達がこれに習ったということは、容易に想像できるのである。

 その皇帝とは、清の六大皇帝の乾隆帝である。
 乾隆帝は茶人としても有名であり、銘茶を産する竜井をおとずれた時、「竜井の上に坐して茶を煮、偶ま成る」と題して次のような詩を残している。竜井とは山中の泉の名である。

   竜井の新茶   竜井の泉        一家の風味   烹煎を称す

 ここには、泉のほとりで、その泉の良水を用いて入れた新茶の味に感動した皇亭の姿が、同時に、中国の茶人たちが泉へ行き、いかにその良水を求めたかという中国茶道の特徴が彷沸と描かれている。そこから、清代には真鍮がさかんに利用されているので、これだけ手のこんだ重圧で風格のあるやかんは、ことによると、竜井の泉で乾隆帝がつかったやかんではないかと、私はまたまた想像力をかりたてられ、これだけ私の想像力をかりたてるこの真鍮やかんはなみのものではないと、それだけの自身をもって言うことができる。

 この茶と水の話は、しかし過去のものではなく現在においても生きており、それがわかるのが、陳舜臣の「茶の話」という本の中の次の挿話である。
 ただ残念な事は、陳舜臣自身が乳泉という山中の泉に良水を求めたのではないので、コンロやかんのたぐいを持参した話などなく、また、その泉の水でお茶を入れた貧しい老尼僧がこのような高価なやかんを使っていたとも考えられないし、いずれにしてもやかんの話が訳されていないという事である。

 その話というのは、たまたま陳舜臣が乳泉のほとりにある古い尼寺をおとずれた時、そこの釈寛能という老尼僧からお茶をご地走になったが、そのとき、老尼僧が次のように語ったというのである。
   今日のお茶は淡白すぎます。最近、だいぶ雨が降りましたので。
 この文は、雨によって泉の水の質が悪くなったという事で、これは、現代でも陸羽の品水が行われている、中国茶道の伝統が生きているということがわかるのだが、しかし私の目的は中国茶道を語ることではなく、この真鍮コンロやかんの真贋を語ることである。したがって、本論に戻ってこのコンロやかんの真贋についていえば、私ごとき人間をさえささやかとはいえ陸羽の世界にひきこんでくれたこのやかん、本物のやかん、中国文物だと、私にいわせるだけのものがある、それは間違いのないことである。