中国文物真贋道中膝栗毛    犬飼和雄


        三 景徳鎮祥瑞稀行

 かつて日本の骨董屋で祥瑞の茶碗を捜したことがあるが、とうとうその本物どころかにせものにもお目にかかることはできなかった。もっともお目にかかっても、私の財布では手におえそうもなかったから、結果はどちらでも同じであったろう。
 チャイナ・ウォッチング店と出会う三十年あまりの昔の事である。

 祥瑞茶碗が青花(染付)磁器であることはいうまでもないが、このチャイナ・ウォッチング店にも多くの染付磁器が置かれていた。ほとんどのものが新しいもので、景徳鎮造だった。
 私は新しい磁器に感心がなかったので、そうした磁器にほとんど目をやったことはなかった。当然いうまでもないことだが、チャイナ・ウォッチング店のそうしたし染付けの中に祥瑞があるかもしれないなど夢にも考えた事もないし、現実にそんな可能性があるはずもなかった。
 祥瑞というのは通常「ションズイ」と呼ばれている青花、日本語では染付と呼ばれている磁器である。
 この祥瑞その染付の青い文様に特徴がある。この時期は江戸時代の茶人に特に好まれ、中国ではほとんど見られないという特徴をそなえている。

 その文様というのは、円とか菱形とか亀甲とか丁字形とか、いわゆる幾何学的分様が主体で、そうした文様とともに、鳥や魚や十字や波型などが描かれ、余白には、中国山水風景などが埋められている。もちろん、こうした文様がすべてそろっているわけではなく、こうした文様がいくつか組み合わされているのである。この祥瑞茶碗で茶人に最も珍獣されているのは、その胴に太い茶色の線の入っているもので、祥瑞胴紺茶碗と呼ばれているものである。
 このような文様の染付磁器がどうして祥瑞と呼ばれているかというと、実はここがこの磁器のもっとも魅力的な特徴だが、その底に次のような銘があるからである。

    五良大甫呉祥瑞造  

 この銘は二行で書かれている。
 私がかつて祥瑞に興味を持ち、できれば手に入れたいと思ったのは、この銘についての謎めいた諸説にひかれたからである。
 この銘については、ということは、祥瑞磁器についてということもできるのだが、すべに江戸時代からその実態がわからなくなってさまざまに論じられながら現在にいたっている。言い換えれば、謎につつまれたものだということができ、それだけに、私はこの祥瑞にひかれたのである。

 この祥瑞については一且はあきらめてしまったのだが、ここで文物の真贋に目を何けるようになって、この祥瑞が私の中で再びよみがえったのである。真贋の対象として、この祥瑞が特殊な位置にあるのに気がついたのである。
 つまり、正体不明な祥瑞のような染付磁器の本物にせものはどう鑑定したらいのであろうか。少なくとも今から三十年前と現在では、この祥瑞の鑑定は全く違ってくるのである。三十年前なら日本で妬かれたものが本物、現代では中国で焼かれたものが本物という事になるのである。少なくとも私ならそうするが、だからといって現代祥瑞の謎が解明しているわけではないので、そこに祥瑞の魅力がある。

 私は現在では祥瑞は中国でつくられたものだと思っているが、かつては日本でつくられたものだと信じている。
 それは、次のような理由による。

 もう三十年以上昔になるが、私は祥瑞とは何かといろいろ調べ、その説明はみなほとんど同じだったが、「広辞苑」の説明が一番頭に刻み込まれた。当時は若くて「広辞苑」を信用していたので、その説明をうのみにしていた時代がある。その後、別の説明に変わってきたのを知ったが、その説明ももう一つ根拠が薄弱で腑に落ちないまま現在にいたっている。

 「広辞苑」の祥瑞の説明は、あらためてことわっておくが三十年前のである、もっとも三十年前は現在といえなくもないが、次のようになっていた。
    諸説があり、普通に伝えられるところは、陶工で、伊藤といい、通称五郎太夫。伊勢国の人という。後柏原天皇時代明国に渡り、磁器の製法を学び、饒州窯の秘奥を究めて帰り、有田付近で製陶に従亊したという。呉祥瑞、また祥瑞は中国の地名、ヌは明の陶工で、五郎太夫に陶法を伝えたともいう。

 後柏原天皇というのは1500年〜1562年、応仁の乱以後の天皇で、中国では明の時代である。五郎太夫という日本人は、祥瑞銘の五良大甫を読みかえたものであることは明らかである。
 この説明は混乱しており納得できるものではないが、その要旨ははっきりしている。祥瑞という磁器は日本で日本人の陶工によって焼かれたものであるとである。

 これに対して現在では、祥瑞は中国の焼物の町景徳鎮でつくられたものであるということが通訳になっている。
 その理由は、御柏原天皇の時代、まだ日本では染付磁器は焼かれていなかったし、伊藤五郎太夫という陶工が存在したという証拠も認められないからであるという。
 しかしそれにしても、いまだに「五良大甫呉祥瑞造」の意味は解明されておらず、どうして景徳鎮で作られたといえるのか、その根拠もあいまいで、依然として謎を謎として残している。

 次の説明は、大樋年朗の「茶のやきもの」の中の祥瑞についてのもので、現在の標準的説明だという事ができる。
   明末崇禎年間の頃、景徳鎮で日本何け茶器として焼かれた染付の上手のものを祥瑞と称している。祥瑞は茶陶の染付のうち最上手とされている。
   祥瑞は、この手の器底に「五良大甫呉祥瑞造」の染付銘があるものと、角福銘と無名の三つに分けられるのであって、この染付銘については、さまざまな解釈があり結論はでてこない。すなわち呉も祥瑞も地名だとする説、五良大甫は日本人名、呉祥瑞派中国人名とする説、また小堀十州が仮に名づけた架空の人物説などあり、このほかにもさまざまな説が錯綜していて、いまだに謎とされている。

 明の崇徳年鑑というのは、千六百三十年前後、江戸時代初期である。
 この説明も諸説をならべているだけだし、祥瑞が景徳鎮で造られたものだとはいいながら、その根拠の説明もなければ、「五良大甫呉祥瑞造」と景徳鎮とのかかわりについても一切ふれていない。
 いずれにしろ祥瑞という染付磁器は日本人に珍重されてきたものなのに謎めいており、だから私が好奇心をそそられたのだが、祥瑞は日本でも中国でも手にとることはもちろんのこと目にふれることもできなかったので、いつとはなしに、祥瑞は私の頭の片隅においやられてしまった。二度と姿を見せる事はないと思っていた。


 それが最近になって、我が家に、中国文化研究所という看板をかかげ、佳川文乃緒がその研究員となり、顔が大きくなり、私に虫のいい要求をするようになってから、それがきっかけで、祥瑞が頭の片隅から動き出したのである。
 なにがさいわいするかわからないが、佳川文乃緒の功績大なるものがある、といっても、佳川に私の頭の中の祥瑞をうごかそうという意図など全くなかったのだから、この功績は佳川にいわないにこしたことがないと私は信じている。
 ある日、佳川文乃緒がめずらしく真剣な表情をたたえていった。

 「今度、妹が家を新築したのです。妹にはいつも助けられているので、この際、妹に新築祝いをあげてご機嫌をとっておこうと思うのです。それにふさわしい、何か安くて高く見えるものを、先生に選んでいただきたいのです。陶器がいいと思うのですが」
「安くて高く見えるものですか」
と私は何かごまかしの片棒をかつがされるようなきがして心中はおだやかではなかったが、私の陶器鑑定眼を信用してのことだと思えば、それに、佳川文乃緒はかけがえのないわが中国文化研究所の研究員、誠実に答えなければならなかった。

 私は腕を組んだが、そんな事をしなくても答えは瞬間的にひらめいていた。チャイナ・ウォッチング店には、他の店と比べたら破格的に安い陶磁器がいくらでもある。それを買えば、佳川の望どおりになる。といっても、私は新しい陶磁器にはほとんど目をむけたことがなかったので、こんな風にいうのは気が引けたが、それでも腕をほどいて、おもむろにいった。

「チャイナ・ウォッチング店には、なかなかの陶磁器がたくさんあります。みんな他の店よりずっと安いですから、佳川さんの目的にかなうものが容易に手にはいりますよ」
「そうですか。それなら一緒にいって選んでいただけるしょうか」
「いいですよ」
と私はいったが、やれやれだった。たとえ佳川のものでも、新しい陶磁器を選ぶ、私の趣味ではなかった。

 それでもその二日後、私は佳川文乃緒をしたがえて、チャイナ・ウォッチング店へのりこんでいった。
 私ははじめて、店にあふれている新しい陶磁器に注意の目をむけた。思っていたよりもはるかに多くの染付磁器が雑然と群がっていた。
 私は早く佳川に頼まれた事を済ませてしまおうと、真っ先に目に付いた小さな染付香炉を手にとった。
「これなど小さいので安いし、素人ではその値段などわからないので、これはどうです」
「でも、そんな小さいものですと、どう見ても高くは見えません。もっと大きくて見てくれのよいものでないと高く見えないと思いますがどうでしょう」
「それはそうですね」
と私はその香炉を棚に戻しかけ、その奥にあった同じように小さい染付香炉にふっと目をやり、まさか、と息をのんだ。

 大きい小さいなど関係がないのだ。関係のない佳川文乃緒がほこりとなって、私のかたわらから失踪した。
「これはなんだ、まさか、そのまさかだ」
と私はつぶやき、目をこらしてから確認し手にとった。
 それは三本足の掌に乗るほどの小さな染付香炉だったが、私が目を吸いつけられたのはその文様だった。
 丁字を組み合わせた文様、円とその中の花文様、余白の山水風景、まぎれもなくこれは祥瑞、祥瑞香炉だった。しかもどう見ても、新しい祥瑞香炉、しばらくは、この店にこのようなものがあったのが信じられなかった。

 それでもしばらくして少し冷静になり、底にあの「五良大甫呉祥瑞造」という銘があったらこれは絶句ものだと香炉をひっくり返して底に目をやり絶句したが、それは「五良大甫呉祥瑞造」という銘がなかったからである。
 底にあった銘は、「道八」だった。
 まさに、まさかだった。

 中国の陶磁器しかおかれていないチャイナ・ウォッチング店に、日本の陶工である道八がつくった祥瑞香炉があるなんて、私の頭では信じがたい事だった。

 道八という陶工は一人ではなかった。初代道八というのは江戸末期の陶工で、現代でも何代目かの道八が実在している。
 私はかつて、山梨県立美術館の前にあった骨董屋で何代目かの道八かわからないが、白釉の富士山が描かれている道八の赤楽茶碗を手に入れたことがある。渋い風格のある富士赤楽茶碗で、家にかえってほれぼれとながめていた時、茶碗が手から滑ってテーブルの上に落ちて割れてしまい、悔いがいつまでもあとをひいたが、道八は楽茶碗も作っており、祥瑞もつくっていた。
 二代目を仁阿弥道八というが、祥瑞を焼いており、祥瑞写しといわれて有名である。祥瑞写しというのは、現代的にいえばレプリカ、にせものだが、茶人にはそれなりに尊重されているものである。
 しかし私が今手にしている道八の祥瑞香炉はどう見ても新しいもの、仁阿弥道八のものではなかったし、それより何より、ここはチャイナ・ウォッチング店、日本のものなどあるはずがなかった。
 私は道八香炉を両手ではさんで保坂さんのところへいった。

「どうしてこんな香炉がこの店にあるのですか」
少し声がうわずっていた。
「「えっ、どの香炉ですか」
と保坂さんは、私の意気込んだ声におどろいたように立ち上がった。
「これです」
と私は香炉を保坂さんの顔の前につきつけた。
「これは道八の祥瑞香炉です。日本でつくられたものでしょう。それが中国のものしか扱っていないこの店にどうしてあるのです」
「ああ、その香炉ですか。確かに新しい道八の祥瑞香炉ですが、日本のものだから、そのレプリカが日本でつくられたなどいえませんよ。それは景徳鎮でつくられたのですよ」
「景徳鎮で道八の祥瑞写しのレプリカがつくられた、それでは、にせもののにせものが、本物の祥瑞をつくったところでつくられたという事ではないですか」
と私は、祥瑞が景徳鎮でつくられたという説明を思い出し、少し頭が混乱してきた。

「そんな事ってあるのですか。ちょっと考えられないな」
「それがあるのです。といっても、その道八香炉が景徳鎮でつくられたのは、もう二十年ぐらい昔の事ですがね。当時、京都に中国のものを扱っていた大きな中国屋があったのです。バブルのころでそれは羽振りがよかったのです。その頃は、この店も良かったのですよ。その中国屋の社長がですね、本物として高く売るつもりだったかどうかは分かりませんが、この道八祥瑞香炉なら高く売れるだろうと、そのレプリカを景徳鎮に、それも三百あまりも作らせたのです。しかしあまりたくさん作ってしまったので、本物として高く売れなかったばかりか売れ残ってしまったのです。レプリカを三百もつくれば当然です。で、私のところに十ばかり流れてきたのです。それは最後の一つです」

「そうでしたか。よくわかりました。それにしても日本人のつくった祥瑞のにせもののにせものを、本物をつくった景徳鎮がつくるなどちょっと信じられません」

「景徳鎮は、中国人は、そんな風に考えませんよ。注文があれば、売れるとわかれば、にせものののにせものでも、本物の本物でもいくらでもつくりますよ」
「たしかにそうですが」

と私はあいづちをうちながら、祥瑞のひとつの真贋問題に気がついた。このにせものの道八祥瑞香炉も何十年かたったら、にせもののにせものとして作られたものだといういきさつが消えてしまい、一人歩きをしだすにちがいない。という事は、今では明々白々にせものが、本物として歩きはじめることがあるということである。
 未来の本物の道八祥瑞香炉を買わないという手はなかった。

 私は保坂さんにいった。
「これはいくらです」
「残り物ですから五百円でいいですよ」
「えっ、五百円ですか」
と私はさすがに、この香炉は将来本物の道八香炉になるのだとは言わなかった。
「高いですか」
と保坂さんは何かを勘違いしたのか、今にも百円ぐらいにまけそうな顔をした。
「とんでもないですよ」
と私は五百円コインを保坂さんに払い、未来の本物香炉がいとも簡単に手に入ったことをよろこんでいた。

 その時、突如としてほこりが舞い降りてきて、いかにも不満げに口をはさんだ。
「それでは安すぎます。もうちょっと高くて大きいものでなければかっこうがつきませんです。はい、そうです」
「もっと大きいものも何もこれ一つしかー」
といいかけて、今日佳川文乃緒とチャイナ・ウォッチング店へのりこんできた本来の目的を思い出し、こんなすばらしい祥瑞香炉が手にはいったのも佳川のおかげだ、安くて高く見える花瓶か何かを探してやらなければと思ったが、もうひとつ気がのらないまままわりの染付磁器に目をやり、すぐに、というのはどうでも良くなっていたからだが、高さ三十センチあまりの二匹の竜がからみあっている、染み付け竜文瓶をてにとって佳川にいった。

「これはどうですか。この竜、なかなか迫力があります。これを他の店で買ったら、ここの値段の五倍はしますよ」
「本当にこれはいい物なのですね。安いのに高く見えるのですね」
と佳川文乃緒が念を押した。私を信用していないようだったが、にせもののにせものの祥瑞香炉が手にはいったのだ、文句は言えなかった。
「きっとよろこんでもらえますよ」
と私は無責任にいった。

 そのあとしばらくして、佳川文乃緒と顔を合わせたとき、私はきかずもがなのことをきいた。
「あの竜の花瓶、妹さんによろこんでもらえました」
「いいえ、よろこんでもらえませんでした。竜は気味悪いといっていました。それだけではなかったのです。あの花瓶を妹に渡して、十日ばかりたって、妹の家へ行ったのです。ところが妹の家の床の間どころか玄関にも置いてないのです。どうしたのかとこっそりと捜して見つけたのですが、どこにあったと思います」
「わからないな、寝室にでも置いてあったのですか」
「とんでもございません。廊下の隅に放り出されていたのです」
「それはそれは、この次は、妹さんによろこんでもらえるものを選びます」
と私は苦笑したが、その一方では、あの時、にせもののにせものという貴重な道八祥瑞香炉に気をとられ、安くて高いものまでには気がまわらなかったからだと思い出していた。


 今では、その祥瑞香炉はわが中国研究所の陳列棚に貴重な資料としておさまっているし、祥瑞騒動は、ごく当然のことながらこれで終わったと思っていた。
 その日も、私はチャイナ・ウォッチングへ佳川文乃緒と一緒に出かけていったが、今回は特に目的があったわけではなく、たまたまそうなっただけの事である。佳川がまた一緒だから今回もチャイナ・ウォッチング店で祥瑞に会えるかもしれないぞ、いくら私でも、そんな虫のいいことはこれっぽちも頭になかった。
 それが現実というものである。
 二人で店へ入っていくと、保坂さんが目ざとく私を認めていった。
「先生にお見せしたいものが入ったのですよ。景徳鎮の友人が送ってきたものですが、ことによるとと思っているのです」
「ことによるととはなんですか。まさか道八ではないでしょうね」
とふっと道八ということばが口をついてでたが、別に根拠があってのことではなく、この前、この店で買ったのがあの道八の香炉だったからにちがいない。
「あんなものではありませんが、でも、傷もののようですし、それほどのことはないかもしれませんが」
「ものはなんですか」
と私は保坂さんの言葉をきいているうちに期待がもてなくなった。
「茶碗ですよ」
「茶碗ですか。古いものですか」
と私はなんとなくどうでもよくなった。
「そうですね、ことによると古いものです。もうだいぶ前ですが、景徳鎮の友人に何か古いもの、いや、古そうに見えるものでもいいから送ってくれないかと頼んでおいたのです。そうしましたら二日前に荷が届きましてね、その中に茶碗があって友人の説明がそえられていたのです。何でも古い倉庫を建てかえるために片付けていたら片隅にほこりまみれでころがっていたというのです。」
と保坂さんが私にとってはなんとも興味深いことを語ってくれた。
「それはおもしろそうですね」
と私はからだをのりだした。これほど出目がはっきりしている陶磁器はわが中国文化研究所にはひとつもなかったからだ。しかもどうやら古いもののようなので、文物というより貴重な資料だし、その上、不良品だから容易に手に入れられると、私は現物を見る前からそれをもう我が中国文化研究所の陳列棚に並べていたが、現物も見ない不良品をそんな所に並べている自分に、さすがにあきれはしていた。

「ええと、どこにおいたかな」
と保坂さんはあ立ち上がると、店の片隅のダンボールの箱をゴソゴソと捜し始めた。それを見ながら、私は不良品はしょせん不良品だと妙な納得をした。
「ああ、ありました。これです、これですよ」
と保坂さんはしわくちゃの新聞紙にくるんだボールのようなものを私に渡してくれた。
「これですか」
と私はちょっと失望しながら、それでも新聞紙をはがし、うすよごれた染付茶碗が姿をあらわしたときも最初のしばらくは染付かと思っただけだったが、
「これは」
と私はうめいて、我と我が目を疑った。
「これは祥瑞じゃないですか」
と私は叫んだ。
「でも残念なことに傷物ですよ」
「そんな事より、これは確か景徳鎮の古い倉庫に放置されていたものだといわれましたね」
と私の頭の中で祥瑞がめまぐるしく回転し、道八のにせものの祥瑞香炉まで香煙がのぼりはじめた。
 続いて私は気がついた。
「この胴の上部に茶色の筋が入っていますよ」
「それがどうかしましたか」
 保坂さんは、祥瑞の胴の茶色の筋の意味を知らないようだった。私は声をうわずらせながらいった。
「これは祥瑞茶碗、しかもその銅を茶色の筋がとりまいています。これを祥瑞胴紐茶碗といいましてね、祥瑞中の祥瑞、伝説の祥瑞です。私や保坂さんがもてるものではないですよ。しかもそれが景徳鎮から送られてきた、もういうことないですよ。できすぎです」
「なにができすぎだか私には良く分かりませんが、先生、中をよく見てくださいよ。中に傷があるし、白いところはあちらこちらしみだらけです。それにそのドウジュンなんとかいうのはなんのことです。長い事この商売をしていますが、そんな言葉は聞いた事がありませんよ」

と保坂さんが水をさしたが、保坂さんの水など暑くも冷たくもなかった。ただやたらと、茶碗を支えている手が震えた。
「先生、手が震えていますよ、どうかなさいましたか」
とそのときまで、かたわらに黙って立っていた佳川文乃緒が心配そうに口を開いていた。
「これをもっていたら手は震えますよ」
「そんな薄汚いお茶碗の何処がいいのですか」
と佳川はいった。
 だが、その佳川の声でようやくゆとりができ、茶碗の底を見て、手の震えがいっそう激しくなり、茶碗を落としそうになった。
 「五良大甫呉祥瑞造」の銘がグワッと私に迫ってきた。
「すげえな」
と私は保坂さんを、佳川文乃緒はもちろんのこと、無視してうめいた。

 それは典型的な祥瑞胴紐茶碗だった。
 亀甲、菱形、波型、丁字形、渦巻、円とい幾何文様、魚、花、鳥といった祥瑞文様にあふれ、内側には、岩山にそびえる塔といった山水風景が描かれていた。確かに内側に傷があり、白地が茶色っぽいしみでおおわれていたが、古色蒼然とした風格のある茶碗で、何よりもえがたかったのは、これが景徳鎮の古い倉庫にあったということだった。
 この祥瑞胴紐茶碗が研究所のものとなって、時々ほれぼれとながめているうちに、私は五良大甫祥瑞造という銘に刺激された、というより挑戦されている事に気がつくようになり、祥瑞ということばが「芸文類聚」の中に福という字と同居していた事がよみがえってきた。福も祥瑞銘であることはいうまでもない。

 「芸分類聚」の祥瑞部上、下の項に、次のように記されていた。
   祥瑞とは「字林」に日く、禎祥なり、福なり

 したがって、祥瑞という銘と福という銘は同じものだということができる。
 さらにこの「芸分類聚」の中で、祥瑞を象徴するものとして、次のようなものがあげられている。

    慶雲、甘露、木連理、木芝、竜、麟、凰皇、鸞、翼、雀、鳩、雉、馬、白鹿、狐、亀、魚、鼎。

 この中でいくつか説明すると、木連理とは根と幹が別の木が枝でつながっている木で、丁字形で表象されているものである。凰皇というのは雄と雌で、二羽の鳥で表象されている。
かめは亀甲文であることはいうまでもない。
 つまり、祥瑞文様というのは、この「芸分類聚」の祥瑞をあらわすものが文様に使われているのである。
 ということは、他の銘字も「芸分類聚」の祥瑞に関係する文字が使われているはずだと考えられるはずである。こういう視点から五良大甫呉祥瑞造を見ると、まず気がつくのは「五」である。「芸分類聚」の祥瑞項では、祥瑞を表象する言葉として「五」という文字がたくさん使われている。例をあげると次のようなものがある。

 五色、五運、五歳五重、五丈、五行、五音、五采、五鳳、五霊などである。いずれも祥瑞、吉祥、めでたい事を示す数字である。そのほかにも吉祥に五という数字が用いられている。
 五の次の良は、本来よいものを選んであげるということになる。祥瑞文様に、先にあげた祥瑞を表象する神獣や木や鳥や魚が描かれていることで、それは証明される。

 次の大甫も五良と同じような合成語と考えられる。元来漢字の合成は、二つの漢字に共通の意味がある場合、その合成語は元の漢字と同じ意味になる。幼少とか平等とかいうのがその例であるが、五良も同じだと考えられる。大甫も同じで、甫も同じである。どちらも祥瑞にかかり、最高の祥瑞、めでたいものということになる。

 最後に残った呉という漢字は、呉の地、呉の地にある景徳鎮ともとれるが、ここまでくると、呉がもう一つの意味を暗示している事に気がつく。呉と五の発音は、日本語でも中国語でも同じである。
 以上のことから、「五良大甫呉祥瑞造」というのは、最高にめでたい呉の国の景徳鎮で作られた染付磁器だという事ができる。呉の国の景徳鎮だという事は、我が中国文化研究所の祥瑞茶碗がそれをはっきりと証明している。
 ここまでくれば、この銘をつくった人物は、「芸分類聚」を読めるほどの、しかも茶人だったにちがいないと推察する事ができる。
 最後に一つおぎなうと、祥瑞の福という銘も、先にあげた「芸分類聚」の祥瑞の説明、祥瑞は福なりでわかるように、基本的には五良大甫呉祥瑞造と同じだという事ができる。

 私はここまで解明できたので、かならずしも満足したわけではないが、ペンをおきかけた。このような銘をつくり、景徳鎮に祥瑞文様の茶器を注文して作らせた人物の追及、「芸分類聚」を読めるような茶人とは誰かなど私の手におえるものではないとあきらめていたからである。
 しかしである。五良大甫という文字を見ているうちに、なんとも遅まきながら、1人の茶人が私の頭に浮かんできたのである。この銘の中に、その茶人が署名していると気づいたのである。
 その茶人とは、小堀遠州である。
 小堀遠州は江戸前期の大名であり茶人で、徳川家光の茶道の師でもあった。しかも中興名物といい、新種の茶器を茶道に取り入れたのは、小堀遠州だった。当然その立場から「芸分類聚」を手にすることもできたはずだし、読むこともできたろう。また、中国に、景徳鎮に新しい染付茶碗、祥瑞茶碗を注文し、それを中興名物に選足できた人物がいたとすれば小堀遠州しか考えられない。祥瑞茶器が中興名物を代表する茶器である事はいうまでもない。

 その小堀遠州はいろいろな号を有していたが、その中に、大有と宗甫という号があった。この二つの号を組み合わせると大甫になることはいうまでもない。茶人として中興名物の祥瑞茶器の銘に、このようにさりげなく自分の号を残した、誰も気がつかないように自分の号を含ませた、ここまで来ると、祥瑞茶器を景徳鎮に注文して作らせたのは小堀遠州だと、我が中国文化研究所の祥瑞胴紐茶碗の声に従わざるをえない。
 この声が私の耳にしみこんだという事は、もはやこの茶碗がほんものかにせものかなどいうことはたいしたことではないということである。