中国文物真贋道中膝栗毛  法政大学名誉教授  犬飼和雄

      四 青銅器緑青迷走道中


 それを見たとたん、気がついたら両手でやさしくそれを持ち上げていた。チャイナ・ウォッチング店のことで、それは店の片隅におかれていた。
 私がすいよせらるように、それに顔を近づけて見とれていると、そばにいた佳川文乃緒が相手が違うのではないかというように、
「あっ、あっ、あっ」

 佳川の顔に目をやると、珍しく分別くさい顔をして、やたらと右手を振っていた。
 そんな佳川など相手にしていられないと、手にしていたものに目を戻していると、今まできいたこともないような厳しい口調で、佳川がいった。
「猛毒ですよ。そんなふうに頬づりされていらっしゃると、とりかえしのつかないことになります」
「むかしはそういわれてましたが、今ではそうでもないといわれています。それより、たとえ猛毒であったとしても、こいつはすごいですよ。毒にあたっても本望といったところです」
と私は本気だった。
「たとえ猛毒でなくともですね、それは、その色は無気味です。見るからに毒々しいものです。そんなものをどうしてお抱きになれるのです」
「わからないかな」
「なにがです」
「その毒々しさがです」
「そのくらいのことはわかります。緑青です」
と佳川があきれたようにいった。
「いや、ただの緑青ではないということがですよ」
「そのくらいはわかります。金ぴかの安っぽい地はだに緑青がびったりとはりついています。よけい安っぽくて毒々しいです」
「そういわれればそうかもしれませんが、この金ぴかはまちがいなく金めっきで、そこにかさぶたのように緑青がはりついている。それだけにこに緑青、青々としていて鮮やかです。実物を見たのは、初めてです」

とこの私の感動は佳川文乃緒には、いや、保坂さんにもわかってもらえないのではないかと思った。
「先生には緑青がそんな風にお見えになるのですか。信じられません」
と佳川はきっと顔をひきしめた。
「それよりもよく見てください。この緑青はびっしりと金色の地にこびりついていますが、金色の地に彫られている白虎や鳳凰の首をもぎ、足や羽根をくいちぎっています。この金色の地は金めっきで、その下は青銅です。金めっきの地をくいやぶって緑青がここまでかさぶたになるには、千年、いや、二千年はかかります」
「緑青が千年、二千年かかってかさぶたになった、それがどうだとおっしゃるのですか」
「そうしたものが今私の手の中にあるのです。我が中国文化研究所にまた一つ貴重な資料が増えたということです」
「そんな緑青のかたまりがですか」
と佳川文乃緒は首をふった。

 今までなら、私と佳川のやりとりはここで終わりだった。佳川はこれ以上なにをいってもむだだとあきらめて口をつぐんでしまうのだが、どうやら緑青を猛毒だと信じているようで、いつになく能弁だった。

「それが何ででもですね、緑青のかたまりであることに変わりありません。いずれにしろ、金属の銹は体によくないそうです。ですからそんな風になさっているのは、毒をふところに入れておくようなものです。それに、だからそれが本物だ、二千年昔のものだとおっしゃって、いえ、おっしゃるのはいいのです、そんな風に本物の毒を抱きかかえられることはないでしょう。学者ならもっと冷静に対処なされなければならないのではないでしょうか。普段は学者様のように、先生は、中国文化研究所は、美術館や文物商店と違って、文物が本物かにせものかは関係がない。そこから中国文化を学べるものがあればいいのだとよくおっしゃっています。ところが今は、いえ、いつもですが、文物らしいものが目の前に現れると、これは本物だと、ただそれしかおっしゃらず、毒でも本物であればキスをなさいます。おかしいのではないでしょうか」
「それはそうだか」

と私はたじたじだった。私が私の言葉で佳川文乃緒にやられているので、どこか間のびがして御しやす佳川でも、これは抵抗できなかった。ただ、先の私の文物資料論というのは、いかがわしい文物をかうときのもので、そういうことが佳川にわからないから始末に悪いのだった。
「だったらですね、そんな緑青のかたまり、すぐにもテーブルの上におかれたらどうです。それにですね、それもよく先生がおっしゃるようにお墓おなかのものでしょう。お墓の中なら無害ですので、私もよけいなことは申しあげません。そこでなら、先生が欣喜雀躍な去れても私は心配痛しません。それにもう一つ心配なのは、そんな風にお墓の中のものばかりを持ち出して喜んでいらっしゃるとたたられますよ」
「たたられるか。でも私が墓から掘りだしたのでないので、私がたたられることはないでしょう」
「でも、それをもっている人がたたられるのです」
と佳川はどうやらそんなたたりを信じているようだった。

 私は少々むきになって反論した。
「これはですね、特にこの緑青はですね、私にとっては、墓の中からできたものではなくて、美術館から、美術書から突如としてふきだしてきたものです。私にとっては奇蹟だともいえます。欣喜雀躍するのも当然なのです」
「でも」
となおも佳川が言いかけると、そのときまで、保坂さんはだまって私たちのやりとりを聞いていたが、このままではらちがあきそうもないとおもったので口をはさんだ。

「実はですね、この緑青では売り物にならないので、その緑青や泥をとりのぞかなければと思っていたのです。私でさえさわる気がしなかったのです。だからこの店へまぎれこんできたといえます。私も先生のことを少しはわかっているつもりですが、先生がこれほど緑青に感激なさるとはうかつにも気がつきませんでした」

 私は保坂さんに皮肉られているのかとその顔に目をやったが、保坂さんはにこりともしていなかった。もっともその顔は、手もかけないでもうまく売れたという安堵だったのかもしれない。どうやら保坂さんもまた緑青の価値がわかっていないようだった。
「緑青をそのままにしておりていただいてよかったのです。おかげで、青銅器緑青鑑定法が現実できたのです」
「緑青鑑定法ですか。なるほどそうですか。はじめて聞きましたがおもしろい鑑定法ですね」
「そうでしょう」
と私がちょっととくいになって胸をはりかけると、佳川文乃緒が水をさした。
「でも、先生、緑青が毒だといって、昔は誰もそう信じていたのでしょう、昔緑青をけずりとられた青銅器は、そうするとにせものだということになるのでしょうか」
「まさか」
と私は自分で自分の緑青鑑定法に頭をぶつけてしまった。
 が、それはまぎれもなく本物の漢代の金鍍金神獣文青銅樽だった。美術書から緑青とともに抜け出してきて、今私の手もとにあった。
 それは円筒の青銅器で、高さは二十センチあまり、円の直径も同じぐらいで、均整の取れた漢代の容酒器で、樽と呼ばれるものだった。
 円筒には三本の足がついているが、その足というのが、怪獣の顔に直接足がついているその足が、円筒の足だった。円筒の上部の前後にも、同種だが足の怪獣よりひとまわり大きく、威厳のある目をむいた怪獣の顔が浮き彫りになっていた。その余白には、白虎や鳳凰が線彫されていた。上部には、まるい蓋がかこんで、どこかのんびりした顔の鳥が三羽うずわっていた。そうした表面は金鍍金でおおわれていた。つくられた直後は、燦然と金色に輝いていたはずだと、その燦然が緑青で食いちぎられている青銅樽に目をこらしていたら、美術書の中の長信宮灯が浮かんできた。

 その美術書というのは「中国文物精華大辞典・青銅巻」で、その中に長信宮灯と呼ばれる照明用具の写真が載せられているのである。座った宮女が両手で円筒の照明器を支えている青銅で、見事に金鍍金されている。漢代の長信宮と呼ばれた宮殿で使用されていたので長信宮灯と呼ばれていたが、今私がありありと思い出したのは、その長信宮灯の金鍍金をおかしている緑青である。その緑青の色と、私が今手にしている神獣文樽の緑青の色がすっかり同じなのである。

 佳川文乃緒や保坂さんになんといわれようと、私は私の緑青鑑定法に感動し、その樽を抱えて、わが中国文化研究所に帰った。
 その我が中国文化研究所に、実はすでに青銅器が二つあった。
 その一つは、北京の文物市場潘家園で手に入れたものだった。潘家園の広い文物市場をさまよっていた時、私は青銅器が山積みに成っている露店を見つけた。二十あまりの青銅器が無造作に並べられているのを見て、まず本物であるはずがないと判断した。その値段を聞いて、その判断は確かとしたものになった。一つ千円あまりだったからだ。しかししばらく見ているうちに、いくら中国でも、これだけ手のこんだ青銅器を千円であまりでつくれるはずがないとおもいだした。こんなに安いのは人知れず墓から掘り出したものだからだ、そう思って見直すと、その店の青銅器は一つとして同じものがなかったばかりか、それぞれ緑青がこびりついていた。

 私は長さに十センチあまりの虎俑を買った。首から胴にかけて、緑青がべったりはりついていたからだ。といっても、それが本物の漢代の青銅虎俑だと思ったわけではなく、だといって、それが本物かにせものか鑑定法も見つからないまま現在にいたっていた。
 私はその神獣樽の緑青をさすったりなでたりしているうちに、青銅虎俑の緑青をそんなことしたことがないのに気がついた。そうしなかったのは、その理由がもう一つはっきりしないが、どうやら虎俑の緑青があまり魅力がなかったからだときがついた。そのせいか、この虎俑については、その真贋を特に考えたことはないまま現在にいたっていた。というより、青銅器の真贋に迫る手段が見つからなかったからだといったほうがいいかもしれない。

 私は今、緑青青銅器鑑定法を駆使して青銅虎俑が本物かにせものかの問題に迫ることにして、改めてその肩から胴にかけてべったりとはりついている緑青に目をやった。よくよく観察すると、この虎俑の緑青は妙になめらかだった。指でなでてもざらざら感はなかった。さすがに、神獣樽の緑青と違うことに気がついた。こちらの緑青はざらざらかさぶたのようだった。
 遅まきながら、ここまできてようやくがきついた。緑青にも本物にせものがありそうだとである。
 私はそこで、神十分樽の緑青に爪をたてて削ろうとしたが、つめでは歯がたたなかった。それにたいして虎俑の緑青に爪を立てると、緑青がぺたりとはがれ、その下の地はだはまったく侵蝕されていなかった。私にも、この緑青の正体がわかった。何か青い塗料がたくみにぺたりと塗られていたのだった。あきらかに、虎俑の緑青はにせものだった。といって、単純にこの虎俑がにせものだと言い切れないところが、中国文物だからである。かつて殷の時代の亀甲が、文字が彫られていると高く売れるというので、文字のない亀甲にも字を彫って売られていたことがある。この場合も、文字はにせものだが、亀甲は本物だったのである。この虎俑も緑青があるほうがよく売れるので、塗料緑青をつけたものかもしれない。この場合、緑青はにせもので、本体は本物だという事になる。しかしこの虎俑は、これ以上その真贋を私に追求させるだけの品格が、魅力がなかったのでここでペンを置くことにした。このようにあいまいなまま私にペンをおかせた青銅器は、実はそれが答えではないかと思っている。

 これは真贋誘惑鑑定法というべきものだが、実は二つ目の青銅器は、私をしきりに誘惑していたのだが、今までどのように鑑定したらいいのかわからなかったが、少なくとも今は二つ目の青銅器が私をしきりに誘惑している事はまちがいない。やはり無視できない緑青をみにまとっていた。が、最初のうちは、その緑青などあまり問題にしたことはなかった。

 その青銅器とは方形の壷で、その胴の側面は、下部が十センチ上部が十五センチあまり、それに屋根型のふたがついており、高さは三十センチあまりで、罍と呼ばれている殷の時代の神器、容酒器だった。その同の各面は四段に別れ、上部に段には饕餮とよばれる怪獣の顔が浮き彫りにされ、下部二段には鳳凰がむかいあっている。饕餮とは、殷人の守護人魔除けであり、鳳凰という鳥は、瑞祥をもたらすものだった。この怪物と鳥の余白を、直径一センチあまりの渦巻き文がびっしりとうめていた。その精妙で手のこんだつくりは、現代ではまねができないともいわれているが、この青銅器饕餮文罍を見ていると、そうした言葉がごくすなおにうなずけるのである。もちろん、この青銅器にも、青黒い緑青がべったりと張り付いていた。しかし私がこの青銅器を鑑定したのは、緑青ではなく、この手のこんだ精妙な文様が、その青銅器乃三千年以上も生きぬいた風格が認められたからだった。それにつぐ鑑定はこれだけ見事な大きな青銅器のにせものは、私が買った値段、五万や十万では、いくら中国でもとうていつくれないと思ったからだ。もちろん、どんな形であれ、墓から掘り出されたものなら、この値段で売ることは十分にありうるのである。

 私は青銅器金鍍金神獣文樽の緑青をじっとながめながら、あらためて饕餮文罍飲緑青に目をやった。色は罍飲緑青は青黒くてもうひとつ美しくなかったが、いかにも本物の緑青に見えた。あの虎俑のときのように、私はその緑青に爪をたてたが、緑青に爪がはねかえさせられた。どうやら本物の緑青のようだった。
 この罍の場合は確認だったが、緑青から見ても本物の殷の青銅器、ことによると周のものであることにまちがいなかった。
 それはともかく、我が中国文化研究所の資料として、中国青銅器が一つ一つ増えていくとは、たとえそれがにせものでも、いや、にせものだからといった方がいいが、私には信じられないことだった。