中国文物真贋道中膝栗毛 法政大学名誉教授 犬飼和雄
五 農堀盗堀発掘道中
小学校の一、二年ごろの記憶というのはほとんど残っていないが、ある寒い夜のリヤカーの記憶だけは、妙に鮮明にとどまっている。
その晩、夕食が終わってしばらくすると、玄関の前でガラガラとリヤカーを引く音がして、それを待ち構えてたように、親父が立ち上がって玄関へ出て行った。僕もつられて玄関へ行った。
親父が玄関のガラス戸を開けると、そこに、親父の親友である養蜂家の栗原さんが、寒そうに背中を丸めて立っていた。
「よお」
と親父は言うと、すぐに地下たびをはき、いつ用意したのか玄関の片隅におかれたシャベルやクワやつるはし、それに、ゴザや南京袋といったものを、栗原さんと一緒になって、リヤカーに積み始めた。
こんな寒い夜に、リヤカーにそんなものを積んで何処へなにしに行くのかと、僕は子供心に好奇心にかられてながめていると、栗原さんがおやじにささやいた。
「今度のツカは有望だぞ」
「たまにはいいこともないとな」
とおやじが笑った。
「それはそうだ」
と栗原さんも笑った。
僕はツカがなんだかわからなかったので、なんとなくおやじと栗原さんをながめていると、おふくろが玄関へやってきた。
「そんなにお墓ばかり荒らしていると、そのうち2人とも罰が当たりますよ」
とおふくろは怒ったようにいった。
「お墓ではなくツカですよ」
と栗原さんが困ったようにいった。
「ツカといっても古いだけで、お墓であることにはかわりありませんからね」
そこで僕もようやく少しわかってきた。おやじ達は古いお墓をほりに行くのだとである。といっても、何のためにお墓をほりに行くかはわからなかったが、夜の暗闇でお墓をほるなんてすごいな、おもしろそうだなと思った。
「さあ、でかけるか」
とおやじはおふくろを無視して栗原さんに声をかけると、闇にのみこまれた。
もうずっとあとになって、塚からは、昔の人の使ったさびた刀や割れた皿や茶碗が出ることもあるのだとわかったが、そのようなものを、僕は家で見たことはなかった。
それは昭和十年ごろ、神奈川県の秦野という田舎町での事だった。
その後、おやじ達の塚堀りがどうなったかのかわらなかったが、そのうち、ぼくはそんなことは忘れるともなく忘れてしまった。
それがまた僕によみがえったのは、小学校五年の夏休みだった。
僕は夏休みに担任の桐野先生の家へ遊びに行った。先生の家は、秦野盆地の西方に畑が広がっている平沢という所だった。先生に家まで、僕の家から歩いて一時間ばかりだった。
もうそのとき、誰が一緒で、先生の家でなにをしたかなど覚えていない。覚えている事は、先生の家で見せてもらったものだけである。
先生は大きな木箱をもってくるとテーブルの上に置き、蓋をとって中をみせてくれた。僕はのぞき込んだ瞬間、なんだかはわからなかったが、うっと声を上げた。
中には、つやつやした三角形の一センチから二センチぐらいの石が、整然と並んでいた。五十、もっとあったかもしれない。色は黒いものや白っぽいもの灰色っぽいものやさまざまで、表面にけづったようなあとがあった。
「きれいだな」
と僕はいい、その三角形の石にすいよせられた。
「これがなんだかわかるかな」
と先生が誇らしげに言った。
僕が黙って首をふると、先生が説明してくれた。
「これはな、ヤジりといって、大昔このあたりに住んでいた人たちが、獣を取ったり戦争したりした時、矢の先に付けたものだ。ここにあるのは、私がこのあたりの畑をさがしあるいて集めたものだよ」
「まだありますか」
と僕は意気込んでいった。
「まだまだあるさ。犬飼くんだってさがせば発見できるよ」
「本当ですか」
と僕は先生に念を押しながら
(よおし、先生よりもっとたくさん集めるぞ)
と心を躍らせていた。
その後、僕は二、三日おきに、昼食をそこそこにして平沢の畑へ出かけ、暗くなるまでヤジリをさがしまわった。でも、先生がいったようには見つからなかった。
もう少しで夏休みが終わりそうだった。
確か四回目か五回目だった。僕はおやじ達の塚堀りを思い出した。見えるところのヤジリは、先生にみんな取られてしまったにちがいない。とすれば、先生に見られないところをさがすしかない。それは畑の中だった。そうだ、畑を掘ればいいのだ。といっても、シャベルやクワをかついではいけないので、手シャベルをもっていくことにした。
次から僕は、畑に誰もいないのを確かめてから、畑をめったやたらとほりはじめた。
しかし、手シャベルでいくら畑を掘り返してもヤジリは出てこなかった。が、ヤジリを使っていた人たちはどんな人たちだったのだろうか、どれほど昔の事だったろうかなど、ヤジりにまつわるいろいろなことが、頭の中に出てくるようになった。
もう夏休みも終わりそうだったので、僕はやじり探しはあきらめようかと思った時、手シャベルに何か固いものがぶつかり、黒いすきとおるような石のヤジリが姿をあらわした。
「あったぞ」
と僕は飛び上がり、次をさがしたが、見つけたのはそのやじり一つで、ひとつでもいいやと、夏休みが終わると私はやじりさがしをあきらめてしまった。
十二月のある日、おやじが言った。
「栗原さんが帰ってきたぞ。一緒に行くか」
僕は喜んでうんといったが、その時は蜂蜜のことしか頭になかった。
栗原さんは春になると蜜蜂を引率して鹿児島へ出発し、花とともに北上して北海道まで渡り、北海道の花が散ると秦野町の家にかえってくるが、その時はドラムかんにつめた蜂蜜をトラックいっぱいに積んでいた。そのときをまちかまえておやじと僕は栗原さんの家へ出かけていった。毎年の事だった。
栗原さんの家は水無川上流の雑木林の中の一軒家だった。
僕はおやじと一緒に出かけたが、栗原さんは家に近づくにつれ、ここはやじりの平沢に近いという事に気がついたが、家につくとそんな事も忘れて、そこにただよっている蜂蜜の甘い香りに、今はのんびりとただ飛びまわっている蜜蜂の群に飲み込まれた。
栗原さんの家は前が広い草地になっていたが、今はその草地を巣箱がびっしりと埋めていた。
栗原さんは蜜蜂の王様のような顔をして、玄関の前に腰をおろしてタバコをすっていた。
「よう、どうだった」
と親父は言って、栗原さんの前の石に腰をおろした。
「まあ、まあだった。ただ今年のは味がいいぞ」
と栗原さんはいい、横においてあるドラムかんから透明な澄んだ黄色っぽい蜂蜜を茶碗につぐと、おやじと僕に渡してくれた。
僕の待ちに待った瞬間だった。甘い香ばしい蜂蜜を一気にのどに流し込んだ。蜜蜂のように僕の体が中に舞った。
しばらくして満足すると、僕は向こうに見える平沢の畑に気がつき、蜜蜂ばかりやっていられないぞと、栗原さんたちの塚堀りを思い出したわけではないが、栗原さんに聞いた。
「おじさん、このあたりでもヤジリが出ますか」
「ヤジリだと」
と栗原さんは、おやじもだが、おやというように僕を見た。
「先生に教えてもらって、向こうの平沢の畑で黒い石のヤジリを見つけたんだ」
と僕はいった。
「ここは平沢に近いので、このあたりにもあるんじゃないかと思ったんだ」
「ヤジリか、そうか、あるかもしれんが見たことはないな。黒い石のヤジリを見つけたか」
と栗原さんは笑った。
僕ががっかりしていると、おやじが思いついたようにいった。
「そうだな、少しヤジリでもさがしてみるか」
「だが、石のヤジリではな」
と栗原さんが言った。
「ひょっとすると、銅のヤジリにお目にかかれるかもしれんぞ」
「そんなものがあったら面白いんだが、今までそんな話は聞いた事がないぞ」
「だからやる価値があるんじゃないかな」
とおやじが妙に積極的だった。
僕は二人の話がよくわからなかった。どうしてヤジリが銅だとおもしろいかがだった。
「どうして銅だとヤジリがおもしろいの」
と僕は聞いた。
「そうだ、まだ話したことはなかったな」
とおやじがいった。そのおやじの言葉をひきとって、栗原さんが話してくれた。
「この秦野町の秦という字は、今はハタと読んでいるが、もとはシンと呼ばれていた人だ。シンというのは、古い中国の国の名でな、昔シンの人たちがここへきて住んだというので、秦の字を使ってここを秦のというようになったといわれている。だがな、何の証拠も残っていないんだ。その秦の人たちは、まだ日本人が石焼しか使っていなかった時代に、もう銅を使っていたんだな。だから、ヤジリでも、銅のヤジリがみつかれば、シンのひとたちが秦野盆地へきたという証拠になるんだ」
「そのシンの人たちがきたって言うのは、いつ頃ですか」
と僕は興奮してきいた。昔の中国人が秦野に住んでいたなど想像もできないことだった。
「さあ」
と栗原さんが言葉につまると、おやじがいった。
「二千年ぐらい昔だ」
「すごいな」
と僕は叫んだ。
「一つ来年の春まで、銅ヤジリ捜しをしてみるか。だめでだめもとだ」
と栗原さんが言った。
二人の銅ヤジリ探しがどうなったのか僕にはわからなかったが、塚堀りと同じようになんの成果もなかったようだ。とはいえ、僕が中国の秦の存在を知り、日本の古代に目が向くようになったのは、その原点は、ヤジリ、特にこの銅ヤジリだった。
この銅ヤジリ話の後篇は、実は私の話しに成るのだが、これもただのうわさ伝説だといえばそのとおりだが、いずれにしてもそれを語るおやじも栗原さんももう亡くなっているので、二人におもしろがってもらえないのが残念である。
その私の秦野町と秦を結ぶ話というのは、広い意味での富士山麓に伝わる徐福伝説である。秦野町のある秦野盆地が富士山麓であることはいうまでもない。
徐福伝説というのは、徐福が富士山麓まで来たというものである。この伝説は九州にも熊野にも、そのほかにもあり、どこまでが事実かかいもくわからない。
ただ富士山麓の徐福伝説は他には見られない一つの特徴をもっている。
それは、富士山北麓の富士吉田市に「宮下文書」と呼ばれる古代中国史書が残存しているということである。その史書には、五千年以上も昔、富士山麓に富士王朝が存在していたと記されている。この史書はほとんど問題にされないのでその内容もろんじるまでもないが、ここで問題にしたいのは、この史書の最初の筆者が徐福になっていることである。この徐福筆者説もその真疑を論ずるまでもないと思われるが、徐福とは秦人である。そこに、何の根拠によったかはわからないが、秦と富士山麓とのつながりが存在している事はまちがいないといえるであろう。
「史記」によると、徐福という人物は、紀元前二百二十年ごろの秦の道士で、始皇帝の命令で不老不死の仙薬を求めて、少年少女三千人あまりを連れて東海にあるという仙島へと出航した。その仙島は日本であるといわれている。
しかし、徐福は不老不死の仙薬を見つける事はできなかった。手ぶらで帰れば殺される事がわかっていたので、徐福はたどりついた仙島、つまり、日本に住みついてしまったといわれている。この話は、徐福を中心とした秦人が何千人と日本に住みついたということである。が残念ながらその証拠となるような秦の遺物は、今までどこからも発見されていない。おやじ達の塚掘りがそうした証拠をさがしていたのだとすれば尊敬に値するが、今となってはそれをたしかめる手段もない。
それにしても、もしおやじや栗原さんの塚掘りが、僕のヤジリさがしの畑掘りが、秦の都だった咸陽の周辺だったら、という事は、秦野町が咸陽の近くだったらという事だが、きっと目のくらむような青銅器が、銅剣銅牙が、銅鏡が、玉器が、陶器が、いや、等身大の何千という陶器の兵馬俑が、そのもっていた武器にぶちあたったかもしれない。
そうした秦の遺物、というより中国文物がどのようなもので、どのような運命をたどったのかしめす記録が、秦の始皇帝の陵墓についての「史記」の記述に見られる。
それは、次のように記されている。
三泉を穿ち、銅を下にして椁を致す。百観百官、奇器、珍怪、蔵を徙して之に満たす。匠をして機弩矢をつくらしめ、穿ち近づく所の者有れば、すなわち之を射る。
水銀を以て百川、江、大海を為り、機をもって相灌輪す。上は天文を具え、下は地理を具う。人魚の膏を以て燭と為す。滅えざることえを久しゅうするを度ればなり。
始皇帝は、この墓を十三歳の時につくり始めている。死んだのは五十歳なので、三十七年間つくりつずけたことになる。そのために、七十万人の人間を動員したといわれている。
この記録を見れば、始皇帝が自分の墓を盗掘をおそれていたことがわかる。ということは、すでにこの時代、墓の盗堀が行われていたことである。始皇帝自身墓を掘っている。始皇帝が墓を掘っても当時の皇帝なので盗堀とはいえないが、墓の中のものを求めて掘ったとすれば盗堀なのかもしれない。発掘というと、学問的目的という名目がそこにあるからである。が、墓の中のものを、使者の所有物を奪ってしまうという意味では、盗堀も発掘も同じである。
もう一つわかることは、中国文物というものは墓にあるということである。
こうした中国文物の特徴は、その真贋をどう考えたらいいのかという指針は、次の始皇帝の行為の中に認められる。
始皇帝は、墓の中に埋められた財宝を求めて、呉王闔閭の墓を掘っている。そのあとが剣池という池になったということでもわかるように、それは大規模な発掘、盗堀か、だったことがわかる。もちろん、始皇帝が手に入れたものが、貴重な中国文物であったことはいうまでもない。ちなみに、呉王闔閭問いう王は、始皇帝より二百年も昔の人物である。
もう一つ始皇帝と文物との関係を示す事件としては、千九百七十年代の等身大の兵馬俑がある。農民が井戸をほっていて偶然発見したものだが、等身大の陶器の兵士達が七千体も出土したということは、驚嘆のひとことに尽きるが、それ以上の驚異は、これだけの兵馬俑についての記録がどこにもなく、誰にも知られていなかったということである。それが始皇帝の意図したことかもしれないが、いずれにしろ、この兵馬俑は中国の代表的な文物である。また、始皇帝の意に反して、掘り出されてしまったのである。
実は私は、この兵馬俑の話を本で読んだ時、栗原さんとおやじの会話をありありと思い出したのである。
二人は秦野町が秦と関係があることの証拠として銅のヤジリでなければだめだといっていた。二人ともなくなった今ではしるよししもないが、二人の求めた銅のヤジリは二人が思っていた以上に的を射ていたのである。
二人が兵馬俑のことを知っていたかどうかはわからないが、兵場俑が発見された頃、二人はまだ生きていた。
しかし、その兵馬俑の足元におびただしく散乱していた中国文物については知らなかったはずである。
それを私が知ったのは、陳舜臣の「中国発掘物語」の中であり、この本が出版されたのは、千九百一年、二人はすでに亡くなっていたからである。
その本には、「これほどの本物の武器を地下に埋めてしまって、秦の軍備に不安はなかったのでしょうか」と書かれている。
この本物の武器とは、銅ヤジリである。
私はこれを読んで、おやじ達が、秦野町と秦を結びつけるものとして銅鏃を求めた事に、今更のようにうなずいたが、秦の盆地どころか富士山麓から銅ヤジリが出土したという話を聞いたことはない。
ところで、中国文物のおもしろさは、この銅ヤジリの中に見いだせる。もし秦の盆地に真の銅ヤジリが、つまり、本物の銅ヤジリがあったら、その真贋は、たんに、文物としての本物にせものだけでなく中国交流の文化としてのおもしろさにつながっていくのである。
秦野盆地から銅ヤジリは発見されなかった。が、山梨県からは中国の三国時代の呉の国の銅鏡が発見されている銅ヤジリが発見される可能性がなくはないのである。中国文物のおもしろさ、貴重さ、存在意義がそこに認められるのである。
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