中国文物真贋道中膝栗毛 法政大学名誉教授 犬飼和雄
七 小文物珍奇道中 三豚
長い事ためらってはいたが、結局その白磁の豚を手に入れた。チャイナ・ウォッチング店で十年以上もほこりをかぶっていたものだった。
ためらっていたのは、すでにわが中国文化研究所に二匹の豚がいたからだったが、その白磁の豚を買う気になったのは、この豚が先住族の二頭とはちがうことがわかったからだ。
したがって、この白磁豚が研究所の三頭目になったが、しょせん豚は豚、この白磁豚が本物の文物であるかどうかなどまともには考えなかった。
とはいえ、この白磁豚、なかなか堂々としており、二頭の先輩豚よりはるかに大きかった。二頭の先輩豚は大きさが同じぐらいで、どちらも高さが八センチ長さが十五センチあまりの小さいものだった。それに対してこの白磁豚は、長さが三十五センチ、高さが二十五センチと大きく、その上尻が異様にもりあがっていた。背中には直径が七センチあまりの楕円の穴が開いており、その穴には小鳥が止まっているふたがついていた。中は空洞で、長く突き出しているは安易は、直径一センチほどの穴が二つついていた。その白磁の体には、小さな方形の文様と渦巻き文様がいちめんにほどこされていた。その豊満で土って利としたからだ、どこか間のびのした顔、愛嬌はあったが、ただそれだけだった。
私はこの白地豚を研究所に持ち帰ると、先輩の二頭の豚の横にこの白磁豚を並べた。
先輩豚の一頭は成都は文物市場で手に入れたもので、土偶豚だった。古いもので墓の中に長年いたもののようだったが、特に私はその正体を追及したことはなかった。
もう一頭は、私の自慢の玉豚で、まちがいなく、というのは、これをうっていた店主と私の意見が一致したからだが、漢代のものだった。
この玉豚を手に入れたのは、北京の文物市場潘家園でで、まったく偶然からだった。
私はその日、二月の寒い日だったが、何かめぼしいものはないかと、潘家園の広い文物市場をさまよっていた。潘家園市場というのは、広い体育館のような建物とそれを取り巻く広場からなる市場で、建物の中にも広場にも、文物商人達が店をびっしりと広げていた。もっとも店といっても、畳一枚か飯米あまりの布か紙を広げ、その上にさまざまな文物を並べているだけのものだった。それに文物といっても新しいもの古いもの、本物はともかくとしてにせものが、ごたごたとおかれていた。
一通り見るだけでも大変で、もう体力の限界でへとへとだがまだ一つも買っていないしと、ふっと市場の片隅に目をやった。そこに新聞紙を広げ、その上に、たった三つ、うすよごれた土偶の動物のようなものを並べている店が目に入った。その店の、店といえるかどうかは別として、主人は明らかに文物商人ではなく農民だった。青い服を着て寒そうに足を抱えて座っている色の黒い中年男だった。
客の姿はなかった。だからというわけではないが、私はその新聞してんの前にしゃがむと、これは土偶の豚だと思ったものを手にとった。表面ががさがさになるほど摩滅していたので最初は土偶豚だと思ったが、よく見てそれが黒っぽい玉の豚だとわかった。玉がこれほど摩滅するには千年二千年はかかるぞと私は興奮して店主にたずねた。
「この玉豚はいつごろのものですか。これだけ表面がざらざらになっている。古いものでしょうな』
私は漢代のものにちがいないとすでに考えていた。
その農民店主はうかがうように私を見てからいった。
「漢代のものですよ」
「そうでしょうね」
と私ははじめて売り手の言葉を信じた。相手が商人ではなく農民だったせいもあったのかもしれない。
「漢代の墓の中から出てきたものですよ』
と農店主がぼそぼそといった。
「それはどこにあるのです」
農店主は何か地名のような事をしきりに喋っていたが、地名となると私にはもうまるっきり聞き取れなかった。ただそれだけに、ますますこれはまちがいなく漢代の玉豚だ、本物の文物だという確信が強くなった。私は農店主の説明が終わるのを待って聞いた。
「で、これはいくらです」
「七十元です」
みるかげもなく傷んでいる玉豚だがそれにしても漢代の玉豚、私は即座に七十元を払った。
私はこの玉豚は我が中国文化研究所のまぎれもなく漢代のもの、本物の文物だと、この玉豚に「漢代玉豚」という説明札を立てた。しかし、その隣に白磁豚を置いたら、この玉豚の影が妙にうすくなった。
その後で、佳川文乃緒が研究所へやってきた時、私は佳川を白磁豚のところへ案内していった。
「先日この白磁の豚をチャイナ・ウォッチング店で買いましたよ」
「とうとうお買になったのですか。こうして近くで改めてみると、なんともお尻が大きくおなかがぼてっとして醜いですね。でも、おかげで私もスマートになったような気がします」
と佳川がうれしそうにいった。
「でも、どうしてこんな豚を三頭もお買いになるのかわかりませんわ」
「そんなことがわからないかな」
と私はちょっと失望した。
「佳川さんをスマートにするために買ったのではないですよ。前に二頭の豚と違うことに気がついたらです」
「それはよくわかります。太って大きくて白くて、それに鼻に大きな穴が二つあいていますしご立派なお豚さんです」
「そんな事しかわからないかな。もう少し中国文化を、先手、お豚さんぐらいの事は勉強してもらいたいな。佳川さんもまがりなりにこの研究所の研究員ですよ」
「それは申訳ありません。それではお豚さんの勉強をさせていただきます。この白豚さんは中国文化とどんな関係があるのですか」
やっと話の核心に入ったので、私は満足していった。
「いいですか、この白磁豚は中が空洞になっています。それに鼻にあなが二つあいています」
「それはわかりますが、それがどうしたのでしょうか」
「それはですね、二頭の専従豚は中に何も入れられないし、鼻の穴もあいていません。明らかにこの二頭は、死者と一緒に墓に埋められるだけの目的のものです。いってみれば、亡者用です。それに足してこの白磁豚は、中に酒を入れこの鼻穴から杯に酒を注ぐためにつくられたのです。つまり、生者用のもので、豚は豚でも、前の二頭とは根本的に違うのです。それに気がついたからこの白磁豚を買ったのです。ですから三頭目とはいえないのです」
と私はちょっと得意になった。
ところが、佳川文乃緒は素直にうなずかないで、とんでもないことを言い出した。
「そうでございますか。でもですね、死んだ人でもお墓の中で、このような白豚の酒瓶にお酒を入れて、杯に注いで飲むのではないでしょうか」
私はあきれて、そういえば無知の童女のような顔をしている佳川をながめていた。とっさにこれ以上相手にする気が起こらなかった。
すると、佳川は私を無視して白磁豚を両手で抱き上げ、豚の鼻穴をのぞきこんだ。
「穴になっていますよ。そこから酒が注げるようになっているのです」
と私は無駄だとはわかっていたが、もう一度いった。
「この白豚はとても重うございますね」
と佳川は私の言葉が耳にはいらなかったのか関係のないことをいいだした。
「それは白磁だから重いですよ」
「これにお酒をいっぱい入れたら重くてお酒を杯にそそいたりはできないのではないでしょうか」
「そんな事はあありません。日本の一升ビンと同じものです。男なら一升ビンか杯に簡単に注げますよ」
「でもですね、鼻の穴が二つでございますよ」
「当然でしょう。鼻の穴が一つなら怪豚ですよ」
と私はうんざりだった。常識程度も知識のない相手を相手にしえいると妙に疲れる。
「それはそうでございますが、私のいいたいことはですね、その二つの穴の鼻の間がとても離れて見えるということでございます」
「豚の鼻の穴ってそういうものです」
と私はうんざりしてもう話をやめたかった。無知童女とこんな愚にもつかないことをいいだした。
「それだけではございません。この豚の鼻の穴、大変大きうございます」
「そのほうが酒を注ぐのに便利だからですよ」
と私はこの話を終わりにしようときっといったが、無知童女には通じなかった。
「さようでございますか。でも、先生はこの豚の鼻からお酒を、お水でも結構ですが、実際に杯にお注ぎになったことがございますでしょうか」
その顔が妙に分別くさくなっていた。
おやと思いながら私はまだ何も気がつかないでいった。
「中は泥だらけだし、そこまではしていません」
「一度お試しになったらどうでしょうか」
その言葉には、どことなくうむを言わせないところがあり、無知童女が分別童女になっていた。それに気がついて遅まきながらさすがに、ひょっとしたらと私は自信がゆらぎはじめた。
私は黙って白磁豚を抱えると、ともかく台所へ行った。
豚の体内に水を入れると、まだいっぱいにならないうちに、はや水が二つお鼻の穴から流れ出した。これでは一升ビンにもならないぞと、分別童女の顔が迫ってきた。
それでも、嵐に杯を置き、水を入れた豚を抱え、それを杯に向かってかたむけると、二すじの水が八の字に広がって、杯の左右にほとばしった。これでは杯どころか、茶碗にも、いや、どんぶりにも水を注げない。私は白磁豚を抱えたまま、うっとうめいた。これも生きた人間のものではなかった。
それが佳川文乃緒にわかって私にわからなかったとは、私はしばし台所で慙愧の念にかられていたがまさかここにこもっているわけにもいかないので、びしょにぬれた白磁豚と共に佳川のいる陳列室へ戻った。
「どうでした、杯にうまく注げましたか」
と佳川が私の顔を見るなりいった。
「ウン、これも生きた人間のものじゃなかった。死んだ人間用だった。佳川さんにも教えられる事があるのだとわかりましたよ」
「教えるなんて、とんでもございません。たまたまあたっただけでございます」
そうだろうなと私はいいたかったが、いうまでもないことだと、白磁豚を陳列棚へ戻そうと、私は玉豚を横にどけた。するとそれを待っていたかのように、佳川が私の手を金縛りにした。
「いま先生がお手にしたお豚さんですがね、実はまえまえから先生にお聞きしたいと思っていたのでございます」
「えっ、なにをです」
私は佳川がなにをききたがっているのかまったく見当もつかなかった。
「そのお豚さまに漢の玉豚という説明札をおつけになたのは先生でございますね」
「そうです、当然です、ほかにそんなことがわかる人はいません」
「そうでございますね、でも、それは本物でしょうか」
「もちろん、本物の玉豚です」
とさすがに私はむっとなった。
「この研究所の中でも本物中の本物文物です」
「いえ、本物といいましても文物の方ではございません」
と佳川がにんまりと笑った。
「すると、なにが本物だというのです」
「豚のほうがでございます」
「豚のほうだと」
と私はまだ佳川のいおうとしていることがわからなかった。
「さようでございます。この玉のお豚さまはですね、脚をおってはらばいになっておられ、お顔を折った脚の上にのせていらっしゃいます。一見するとお豚さまに見えない事もございませんが、折った脚の上にお顔を乗せていられるというのはどういうものでしょうか」
「折った脚の上に顔をのせているだと」
と私はそこまでいって、さすがにあっと声を上げた。
白磁豚も土偶も短い足でたっている。その足は折り曲げられそうもなかった。それに玉豚の鼻は前方に突き出していなかった。
潘家園市場で玉豚といって買い、売り手も何もいわなかったので今日の今日まで玉豚と思い込んでいたが、それは私の早とちりによるものだったが、またまた佳川文乃緒にやられるとは、無知童女なんぞ呼んでいたむくいか。それにしても相手が佳川文乃緒だったので、私は一瞬、頭が白々になった。その私に追い討ちをかけるように、佳川がいった。
「そうでございましょう。私はずっと以前からこれは玉豚ではなく玉犬、お犬さまではないかと思っていたのですが間違っていますでしょうか」
「そうだ、これは犬だ、これは玉犬だ」
と私はうめき、しばらくは呆然と玉豚を、いや、玉犬に、いや、佳川文乃緒に目をすいよせられていた。
やがて我にかえり、にこやかに笑っている佳川に目をとめ、佳川は我が研究所のかけがえのない研究員、私と一蓮托生だ。私が豚と犬の区別もつかないという事が世間に知られたら、私は、私の中国文物真贋は、まったく誰からも相手にされなくなってしまう。我が中国文化研究所の資料は、その存在意義をなくしてしまう。
私は佳川に強く言った。
「いいですか。白磁豚のこともそうですが、この豚と犬の区別を私ができなかったということは極秘の中でも極秘ですよ。わかっていますね」
「もちろんですわ。それに私にわかって先生にわからなかった、豚と犬のちがいがですよ。そんな事を人にしゃべっても誰も信用されません」
と佳川文乃緒は童女のようにあどけなく笑った。
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