中国文物真贋道中膝栗毛    犬飼和雄


      九 不真不贋膝栗毛

 「同業の友人からこんなファックスが入ったのですが、もらおうかどうかと迷っているのですよ」

と保坂さんが、私が店に入っていくと、手にしていたファックスを私のほうに突き出した。見ると写真入のファックスで、私は何気なくその写真に目をやり、まさかと我とわが目を疑った。
「どうして迷っているのです」
と私はとっさに保坂さんの顔に目をやった。私は迷っている保坂さんも信じられなかったし、それがこの店にくるということも信じられなかった。
「どうしてといわれましてもね」
と保坂さんが言った。
「高いものだからですか」
「高いといえば高いのですが、この友人も商売が思わしくなくて金に困っているのです。ですから、安くするから買わないかといってきたのです。これは二十年、いや、もうちょっと前、バブルのごろは、百五十万もしたものです。当時、私も欲しかったのですが、百五十万、手がでなかったのです」
「百五十万ですか」
と私はガックリとつぶやいた。安くなったとしても、私の手のでる値段ではなかった。
「そうです、でもそれは二十年以上昔のバブルの頃で、当時は、中国文物も高ければ本物だとよく売れたのです」
「それでいくらにするというのです」
と私は無駄だとわかったが、まだ未練たっぷりだった。

 意外な値段が保坂さんから帰ってきた。
「十万でいいというのです」
「えっ、十万、本当ですか」
と私は信じられなくて聞き返した。
「そうですよ」
「どうしてそんなに安くなるのです」
「それはですね、このファックスの写真では分かりませんが、頭の角が二本とも折れてしまい、今は接着剤でつけてあるのです。それに台座も大きくかけてしまったからです。友人がそれでも十万ならこれだけの掘りだしものではないといってきましたがね。といって、この店で十万のもの、なかなか売れません。下手をするともちこみになってしまいます」
と保坂さんは肩をすくめた。

「本当に十万でよければ私がもらいます。もらってください」
「でも、きずものです。実物を見てこれではだめだといわれたら私が困ります」
と保坂さんは念を押した。
「これほどのもの、きずものであろうとなかろうと、この機会をいっしたら二度と私なんぞ手にはいりません」
「それはそうですね。この店に二度と姿は見せないでしょう。それでは、送ってもらうことにします」
と保坂さんがいい、私はそんな事が現実するのだろうかと、もう一つこの話が信じられなかった。


 その日から、一ヶ月たち二ヶ月たった。
 その間、私は何度もチャイナ・ウォッチング店にあしをはこんだが、あのきずものは姿を見せなかった。保坂さんもなにも語らなかった。
 やっぱり十万では話がうますぎた、それにあれだけのものが私の手に入るわけがない、話だけでもあったことをよしとしなければと、私はむしろ実物が店に届かない事に妙に納得していた。

 その十万円のきずものというのは、今まで美術書でしかお目にかかったことがなく、ましてや私の手にはいるどころか、私の手でさわることがあるとも考えた事のないものだった。
 それは唐三彩怪物俑ともいうべき怪物像だったが、ただの怪物ではなく、?頭とも守墓神とも呼ばれているものだった。
 それは、死者を、墓の主人公を守るために死者と共に埋葬された怪物だった。生者の守り神ならわかるが、死者の守り神となるともう私の理解をこえてしまうが、それだけにこの?頭は、それが私のところへ来るなど、およそ現実ではなかった。
 その?頭は、私が今まで見た?頭とはちがっていたが、それでも死者を守ろうと目をむき、牙をむいているその形相は、私の頭の中の?頭にまさるとも劣らないものだった。これだけでもその真贋を論じる事はできなかった。

 その日も、私は佳川文乃緒と一緒にチャイナ・ウォッチング店へ出かけていった。佳川は最近チャイナ・ウォッチング店によく足をはこぶようになったが、別段中国文物に興味を持つようになったからではなく、膝をいためて、朱薇さんの中国足心道を受けるためだった。よく治療室から佳川の気持よさそうないびきが聞こえてくるので、私はますます朱薇さんの足心道を信頼するようになっていた。


 私が店に入っていくと、保坂さんが待ちかねていたように立ち上がっていった。
「例のものが入りましたよ」
「えっ、例のものとは」
 私はもう?頭の剣はあきらめていたので、例のものが何か、うかつにもわからなかった。
「ファックスのやつですよ」
「本当ですか」
私はファックスのやつといわれて?頭だとはわかったが、まだ半信半疑だった。
「本当ですよ」
と保坂さんはにやりとした。
「どこにあるのです」
「あそこですよ」
と保坂さんは、店の奥の暗がりを指差した。私は息をのんでその暗がりに目をこらした。
「なにがおいてあるのですか」
と佳川文乃緒がなんとも間のびした合の手を入れた。

「みればわかります。すごいものです。佳川さんでも見る価値があります」
「そうですか、それはどんなものです」
 これはだめだ、まず私が見なければと、私は佳川を無視して店の暗がりにまぎれこんだ。
 それは暗がりで私を待ち受けていた。

 目ん玉をむき、大きく口を開け、四本の牙で今にも私をがぶりとみがまえしていた。傲慢で、恐迫的で、醜悪で、私がたじろくほど魅惑的で、居丈高で、高さは一メートルあまり、両手で抱えなければならないほどどっしりしていた。褐色釉と緑色釉の唐三彩俑で、どうみても、実はこれだけのもの、そんなことはどうでもいいが、今日や昨日つくられたものではないのがひとめでわかった。

 気がつくと、私はそれを両手でしっかりと抱き抱えていた。十キロぐらいはありそうだったが、そいつが私にもたれかかると、私の肩をガブリ。私は圧迫され、恐迫され、ただただ歓喜。保坂さんも佳川も一瞬私の脳裏に埋没した。

「先生、そんなところでなにと抱き合っていらっしゃるのですか」
と佳川が無神経にも私たちの間にわってはいってきた。
「ここへ来てこれを見てください」
「これですか。これは一体なんですか」
と佳川は私のそばへ来ると、私と?頭を、いや、私が?頭の親分でもあるかのように私を見ながらいった。
「なんとも醜悪な恐ろしい怪物です。こんなものをどうして抱いていられるのですか」
「これはですね、怪物かもしれませんが唐三彩俑で、?頭とも守墓神ともいわれ、死者を守る怪物です。珍しいもので資料としても貴重なものです。これほどのものがじかに抱けるとは、今まで考えたこともありません」
「すると先生は、この醜悪な怪物をお買いになるということですか」
「もちろんです。これだけのもの、今後私の前に姿をあらわすということはありません。今、買いそこねたら、二度とチャンスはありません。それだけのものです」
「ということは」
と佳川文乃緒が顔をしかめた。

「これも研究所におかれるという事ですね」
「そうです、もちろんです。それがどうかしましたか」
 私はうかつにもまたまた佳川文乃緒がなにをいおうとしているのかわからなかった。
「するとですね」
と佳川が?頭を指さした。
「研究所が文字通りお墓になってしまうということです。ちがうでしょうか」
「それは考えすぎです。私はまぎれもなく生きているからです」
と私はさらにしっかりとその唐三彩?頭を抱きしめながら、もう一つ中国文物に対して反応がにぶい佳川文乃緒にこれだけのことうぃわせるこの?頭は、まさしくそれだけで本物、安っぽいにせものなどのできるところではないと、私は大きくうなずいて、?頭をテーブルの上においた。

 ずしりという重さが右腕に残存し、いつまでもしびれていた。
 私はこの時点でもう、この唐三彩?頭が本物であるかどうかなどは右腕のしびれにまかせていたので、ごく気楽に保坂さんにいった。
「本当にすごい唐三彩?頭を手に入れていただいてありがとうございます。しかも私にかえるとは、いまだに信じられません。おかげで我が中国文化研究所、どこの研究所と比べても遜色のないものとなりました。ここでもう一段と遜色のないものにするためにおたずねするのですが、これは本物ですか、本物の唐三彩ですか」


「本物かどうかという事は、これが唐の時代に作られたかどうかということですね」
と保坂さんは苦笑した。
「もちろん、そうです」
と私は体をのりだした。
「私のいえる事はですね、このような?頭はもう二度とこの店にやってこないという事と、たとえやってきてもこの値段では買えないということです。何しろかつては百五十万もしたもので、あの頃は本物でした。でも、十万になった今では、本物ではないでしょうね」
「でもそれは角が折れて・・・・」
「それはそうですが、それでも十万ではですね」
「すると中国文物の本物にせものは値段で決まるのですか。まさかそんなことはないでしょう。それではこの?頭がかわいそうですよ」
と私はその獰猛な頭をやさしくなでた。その私の手に気がついた佳川文乃緒が、いかにも愛想が尽きた、もう黙っていられないというようにいった。

「こんな兇悪な怪物、しかもお墓の中のものですよ、なにがかわいそうですか。信じられません」
「それはそうですよね、でもですね」
と保坂さんが佳川にあいづちを打ってから、私に向かっていった。

「これの本物にせものが値段で決まるかどうかは、それはともかく、唐三彩の本物にせものは、それはやっかいです。もっとも、簡単といえば簡単です。唐三彩は素朴な陶器ですから、現在でも、どこでも誰でもやくことができます。その一方で、元来墓の中に埋められたものですから、今でも墓の中からいくらでも出土します。しかも数が多いだけではなく形も釉もさまざまです。ですから本物とにせものが雑居している。そんな中国文物です。それでもいえることは、唐代の墓はもうかなり掘られてしまったはずですから、いや、中国のことだからそんなことはいえないかな、いずれにしても、文物市場や文物店に、ことに日本でごろごろしている唐三彩はにせものだと鑑定した方が現実だと思っています」

「にせもの鑑定法ですか、よくわかりますが」
と私はいったが、今目の前にいる唐三彩?頭の手前、もう一つ不満だった。
「でも、すべての唐三彩をにせものだと鑑定したら本物もにせものになってしまうのではないですか」

「それはそうですが、にせものを本物にしてしまう罪に比べたら、本物をにせものにする罪ははるかに軽いですよ」
と保坂さんはここで気がついたようだった。
「本物をにせものにしても罪にはなりませんね。ちがいますか」
 本物をにせものにして安く売る、そんな商人がいるはずもないのに、今私の目の前にまがりなりにもそうした一人の商人が出現した。

 私は黙っていられなくなった。
「保坂さん、本物をにせものだなどいって売る商人などいないでしょう」
 私はチャイナ・ウォッチング店がうまくいっていないのは知っていたが、このとき、思わずうなずいてしまった。
「それはそうです。それはそうですがそれでも」
と保坂さんは肩をすくめた。

「商売は信用が大切です。にせもの鑑定法をしていればお客様にどなりこまれることはないのです。それにこの鑑定、それなりに根拠もあるのです」
「どんな根拠ですか」
私は保坂さんの根拠というものが見当もつかなかった。
「私に医者をしている友人がいましてね」
と保坂さんは語り始めた。

「いつ頃かははっきりしませんが、唐三彩俑にとりつかれ、医者でお金があるので、唐三彩俑をめったやたらと集めだしたのです。この店にも唐三彩を入れろと何度も言われましたが、まさか友人ににせものを売るわけにも行かないので、なるたけかかわらないようにしておいたのです。ところがある日、もうだいぶ前です、その医者が私のとこへやってきましてね、集めた唐三彩が本物かどうか見てくれと言い出したのです。
 さあ困ったぞと私は返事に窮しました。彼が集めたものは、すべて日本で買ったものだとわかっていたからです。私の鑑定です、答は一つだからです。日本で本物の唐三彩など売っていない、うっているものはにせものだからです。でも友人に、その唐三彩俑をみもしないでにせものだとはいえませんし、さてどうしたものかとためらっていると、友人はさすがにわかったようです。  二つか三つは本物だと信じているものがある。それだけでもみてくれないかとです。そこまで言われると行かないわけには行かなくなりましてね、唐三彩にせもの鑑定法をひっさげまして、といっても相手が医者ではいつ診てもらうことになるとも限らないので、ものによっては本物鑑定法を駆使することにしようと、友人の家に出かけていったのです。

それまで友人の家にいったこともないので、その唐三彩俑はみたこともなかったのです。友人の応接間は唐三彩俑でうまっていました。女官もあれば文人、武人もあり、胡人や馬までそれはさまざまな唐三彩俑があり、見た瞬間圧倒されました。百体近くあったと思いますが、そのとき、これだけあればにせものでも十分存在意味がある、本物にせものは関係がないと思いましたが、その一方で、もちろん、私は即座に、これほどたくさんの唐三彩俑、みるまでもなくにせものだと鑑定していました

しかしまさかそうもいえなかったのでなんとなくそこに並んでいる唐三彩俑を手にとったりのぞいたりしていると、友人が恐迫するように、この中でまちがいなく本物といえるものはどれかと言い出したのです。いやでもにせものの本物を選出しなければならなくなりましたね、でもさいわいなことにてごろのものが見つかったのです。
 一つは高さが二十四、五センチのずんぐりした文人俑、もう一つは緑釉だけの高さが二十センチあまりのほっそりした女官俑でした。この二つが本物だというと友人はうかぬ顔をしていいました。その二つは安物だ、お前の鑑定は当てにならないとです。その場はなにはともあれ、友人が信用してくれなかったのでほっとしてひき上げました。

  ところが、この話、友人のうらみつらみの後日談があったのです。私の鑑定が不満だったのでしょう、その友人は東京のプロの中国文物鑑定家に一番たかくかった二つの唐三彩俑、一つは胡人俑、もう一つは馬俑を鑑定してもらうことにしたのです。あらかじめ四万円の鑑定領を払って予約し、先の二つの唐三彩俑をもってその鑑定家の家を訪ねたそうです。その鑑定家は玄関を出てくると、当然だというようにまず聞いたそうです。

  どこで買ったのかとです。友人が山梨県の催し場、アイメッセでの中国文物市で買ったというと、鑑定家はきっぱりとそれはにせものだといって、後は見ようともしなかったそうです。それが鑑定だったのです。理由はちがいますが、これは間接的に私の鑑定が正しかった事を証明してくれたのです」

「それは売り場鑑定法ですね。なるほど気がつきませんでした」
と私は保坂さんの友人にちょっぴり同情しながら、今では私のものになっていた牙をむいて私をにらんでいる唐三彩?頭と顔を見合わせながら、ふっと、保坂さんが苦し紛れに鑑定したにせものの本物の唐三彩女官と文人を思い出し、いずれにしても、つまり、にせものの本物だとしても、この?頭は本物であることにかわりないと、胸を暑くしながら、これがどんなかたちであろうと本物だと、私の頭はにせものの本物せかいにまぎれこんでいった。


 このにせものの本物という真贋論は、ここでは中国文物を論じているので、当然その前に、中国文物のという条件がつくのは、あらためていうまでもないであろう。

 ここで中国文物のにせものの本物について語る前に、ここで文物とは、骨董とはなにかという問題に視点を集中してみることにする。この問題をまともにとりあげると、実は私自身が迷路にはまり込んで抜け出せなくなるのである。文物とは、骨董とは、昔人間によってつくられたものだ、ここでとめておけばそれで十分なのだが、それなら使いたしの布団は、空きビンは、筆はと、取り上げていくと、もう私自身収拾がつかなくなり、次のような解釈の力をかりざるをえなくなる。次の文は辞書の骨董についての説明である。

「美術的価値を有する古道具、あるいは、希少価値や美術的価値のある古美術品や古道具、またこうもいえるであろう。古いもので、文化的かつ美術的価値のあるもの」

 しかしこの説明を見ると、多分私の頭がおかしいということは自覚しているのだが、それにしても頭が混乱してくるのである。それは美術的価値とか希少価値とか文化的価値という言葉である。ごく身近な例で説明すると、陶製の中国いぼいぼカエル、私にとって少しも美術的には、少なくとも美しくは見えないが、佳川文乃緒は唐三彩?頭は見向きもしないどころか顔を背けるが、いぼいぼ蛙はしばし見とれているのである。相手が佳川文乃緒では例としてうまくないことは十分にわかっているが、それにしても美術的価値、よくわからないし、稀少価値となるともっとわからない。佳川のあのうすよごれたいぼいぼカエルの灰皿など今ではどこを捜しても、というのは、文物の美術書をいくら開いてもどこにもみられないもので稀少だが、価値となると、いや、佳川文乃緒にとってはこれ以上価値があるものはないから、ただただ頭が混乱するだけである。


 それからもう一つやっかいなのは、古美術とか古道具の「古」である。百年前は古として、八十年前は、五十年前は、一体古とは何年前をいうのか、これも私の頭が混乱する原因だが、なにしろ中国文物というと三千年以上も昔のものが、殷の青銅器一つ見てもそうだが、本物にせものを別にして今でも文物市場にごろごろしているからである。

 だから、中国文物にはにせものの本物が、またそのにせもの、またまたその本物が存在するのである。
 こうしたにせもの本物文物がいりみだれて存在する一番の例が、陶磁器である。

 例えば宋代の青白磁碗が明代にもつくられたとする。実際に、それも皇帝の命令でつくられているが、当然この明代につくられた宋の青白磁碗は、明代にあってはレプリカ、にせものである。ところが現代では、明代のものであってもその出来がよければ、美術的価値のある古道具、つまり中国文物、しかも本物の文物である。ちなみに明代というと千三百六十六年から千六百六十一年、明末だとしても四百年以上も昔、その時代のものが古道具だとは、今更説明のようはないであろう。

 このにせものの本物文物は、実は同じ明代にも見られるのである。
 青花(染付け)磁器というと、その最高のものは、明の宜徳皇帝(在位一四二六−三五)の時代につくられたといわれている。当然同じ明の時代に、そのレプリカがつくられている。正徳皇帝(在位一五〇六−二一)は景徳鎮に命じて、宜徳皇帝時代の青花時期をつくらせている。現在では、正徳皇帝時代につくられた青花磁器はいうまでもなく古いもので、文物としては本物であることはいうまでもない。
 このように中国陶磁器は、いい物ができると、それをくりかえしつくっている。したがって、にせもののにせものさえつくられている。例えば、宋代の青花磁碗は、明代だけでなく、清代にも民国時代にもつくられている。民国時代とは一九一二年から四九年までである。すると民国時代のものは必ずしも古いとはいえない、少なくとも五十年前の私にとっては古いどころか新しいもの、文物ではなかった。まさににせものだったのである。

 次の文は、故宮博物館がそのホームページで、陶磁器の真贋を実物写真で解説したものの前言である。ただこの解説は陶磁器そのものの真贋であって、それにしても文物としての陶磁器にとっても大変参考になるものを含んでいる。

        元代末期以来の古陶磁業の発展過程で、全時代の陶磁器を意識的に模倣する特殊な陶磁器類、いわゆる「倣古磁」が出現した。「倣古磁」は、古を貴ぶ意識から、あるいは古陶磁芸術にたいする愛好から誕生したものだが、やがて利益をむさぼるものが現れた。 明代、「倣古磁」の生産はすでに一定の規模になった。その後の清代の康熙、雍正、乾隆期、晩清から民国までのとき、および20世紀 80年代以降は、「倣古磁」の三つの高潮期であり、模造品種が多く、あらゆるものがでた。その中の相当な部分の作品は技芸が精緻で、ほんものそっくりで、真偽が判別し難いため、我々の古陶磁器の識別と研究に多くの困難をもたらした。


 この文を一読してわかる事は、中国陶磁器は公然とにせものがつくられており、そのにせもののできがいいということである。これではその真贋を求める事は容易ではないどころか不可能に近い事がわかる。さらに、こうしたにせ陶磁器は、文物という視点で見ると、ほとんどが本物だという事ができるのである。ここに、陶磁器のにせものの本物文物の存在がはっきりと認められるのである。

 さて、ここでにせものとはなにかを明確にしなければならないであろう。にせものとは、単純にいえば本物そっくりにつくられたものであるが、文物、骨董のにせものという概念には、もう一つの側面がある。それは、にせものだということが知られてはならないということである。にせものがにせものだとわかってしまえば、にせものではなくなってしまうということである。これをいいかえれば、本物のにせものとは、本物そっくりにつくられ、その上、それがにせものだということの秘密が保たれているという事である。

 ところが、中国陶磁器をこの本物にせものという視点から見ると、公然とにせものがつくられているから、本物のにせものは存在しない事になるが、それでも時代がたつにつれてその公然性が消えてしまうので、やはり文物としての真贋は存在しているのである。

 次の文も先のホームページのものであるが、これを読むと、陶磁器のにせものが公然といかに多量に、しかもさまざまな陶磁器がつくられていたかがよくわかり、その真贋は容易ではなく、それだけにおもしろいものであることがよくわかる。
 それでは、次のように述べられている。

           明の宜徳皇帝は景徳鎮御器厰に宋代五大名窯中の汝窯と哥窯の磁器を模造するとを命じた。現存する「大明宜徳年制」 の銘が記された倣宋代汝窯盤、倣宋代哥窯碗などとは正にこのような精神追求の証である。その後成化皇帝がこのような精神追求を継承し、景徳鎮御器厰に宋代官窯と哥窯の磁器を模造するように命じ、模造品の種類は一層多様になった。 ・・・・・・明代中・晩期には、宮廷は明代前期名窯磁器への偏愛から、景徳鎮御器厰に永楽・宜徳・成化期の磁器を模造するように命じた。この時期の模造品には宋代官窯・哥窯・定窯・釣窯・竜泉窯の模造品および、明代前期名窯の青花・斗彩・紅緑彩・白釉・紅釉の模造品などがあり、倣古磁は相当大規模な生産となった。


 なおここで前記の引用文の説明を少し補うと、明の宜徳皇帝の時、はじめて陶磁器の底に年代銘が入れられるようになった。「大明宜徳年制」というようにである。もちろんこの年代銘がにせものにもふんだんにいれられており、それがまた陶磁器の真贋にやっかいな問題をなげかけているのである。

 私はここでしきりに宜徳皇帝の名を出したが、それは別に他意があったわけではなく、中国陶磁器には宜徳皇帝の存在が無視できないものがあったからである。といっても、唐三彩?頭のようなもののにせものづくりに、宜徳皇帝がかかわったという記録はどこにもみられなかった。


 それはともかく、この宜徳皇帝がその偉大な影をチャイナ・ウォッチング店におとしているなど、考えろといわれても考えられなかったので、その大盤は目にはふれていたが手にとったことはなかった。手にとったのは、保坂さんの方だった。

「この大盤、先生はあまり興味をもたれないようですがどうしてです」
保坂さんが私を刺激するようなことをいった。
「興味がないわけではないですよ。ほかのものに目がいき、それをあとまわしにしただけです」
と私はいったが、もう一つ保坂さんの意図が、この大盤の魅力がわからなかったのは事実である。
 私はあらためてその大盤に目をやった。

 直径は四十センチ以上、壁の高さは十センチ以上の青花盤で、内側の壁には青花の牡丹がぐるりと描かれ、そこの円の中には、青花竜がのびあがるように体をくねらせていた。一面に見事な貫入が刻まれた重厚な落着いたつくりで、どことなく威厳のあるものだった。見たところ明らかに年代物で、保坂さんにこうやって見せられると、あらためてこれがわが中国文化研究所にない青花竜牡丹大盤だと気がつき、なにはさておき手に入れなければとしさに大盤をながめ、はじめてこの大盤の外壁に気がついた。今まで内側が見えるように棚に飾られていたので、その外壁に気がつかなかったのだ。

 外壁は青花文様ではなく、濃い緑釉でおおわれていて、この大盤に重厚な風格をかもしだしていた。そういえばこのような濃緑釉の磁器、我が研究所に一つもなかった。
 うかつだとしかいいようもなかった。
「なるほどこうしてみせてもらうと、この大盤、その貫入の入った青花文様といい、濃緑釉の外側といい、その上いかにも古そうでどっしりとしたつくりといい、いまだにこれをこの店においていたのがいかにうかつだったかということがよくわかりましたよ」
「実は私が先生に見ていただきたいのは、もちろんこの大盤のつくりもそうですが、底の銘なのです」
「えっ、底の銘を見せたい、どんな銘です」
「なにはさておき、見てくださいよ」
と保坂さんは大盤をひっくりかえして底を私に向けてくれた。
「ああ、これですか」
と私は気がついた。底に直径六センチほどの二重円があり、その中に大明宜徳年製という文字が書かれていた。
「これだけの大盤、ことによると宜徳時代のものかもしれないな。どうして今まで気がつかなかったのだ」
と私はつぶやいた。

「それだけではないでしょう。よくみてくださいよ。もう一つ銘文があるでしょう」
「もう一つ銘文がある・・・・」
私はもう長いこと中国文物の中で暮らし、と陶磁器をいやになるほどみてきたが、いまだかつて、そこに二つの銘があるものなどみたこともなかった。
「ここですよ」
と保坂さんが指で示してくれた。
「これは!」
と私は絶句し、自分の目が信じられなかった。

 底の大明宜徳年製をかこんでいる直径六センチあまりの円をかこんで、底イッパイに直径三十センチあまりの二重円があり、その二重円の間に文字がいっぱいに書かれていた。
「こんな所に文字が書かれている。こんな大盤に、いや、瓶でも皿でも鉢でも見たことがない。一体何とかかれているのです」
 私はその円文の頭がどこだかわからなくて、読むことができなかった。
「これはなんと書いてあるのです」
と私は興奮しながらくり返しいった。
「私のほうが先生にお聞きしたかたのですよ」
と保坂さんがあきれたように笑った。
「読めといわれても円文では頭をさがさないと読めません」
「ここじゃないですか」
と保坂さんが指さした。

「ああ、ここだ、それにしてもこの生々しい銘文、こんな円文があるとは今まで想像したこともないないな。大明宜徳皇帝か、」
「でしょう」
 その円銘文は次のように書かれていた。

        大明宜徳皇帝萬歳萬歳萬萬歳特別賜欽翰林大学仕壹等候宇文唐中府上公田拾月捌日

 私はそのとき、今もこの文が完全に読めたわけではないが、まずこの文の宜徳皇帝をたたえた言葉以外にはありえないと解した。ということは、この青花大盤はまぎれもなく宜徳時代のもの、文物中の文物だという事である。ただ一点の疑念は、これが保坂さんのチャイナ・ウォッチング店にあるということだけだった。
 そんな私の疑念を払試したのが、つぎのことばだった。

      特別欽賜幹林仕壹等

 この文は保坂さんと朱薇さんの知恵を借りてようやく私なりにわかったのだが、それによると、中国の役人登用試験、科拳の試験で一番で合格したものに、その合格を祝って宜徳皇帝がこの大盤を与えたというのである。明は科拳に合格した役人を重円したことで知られているし、宜徳皇帝が陶磁器を尊重し、さかんに焼かせたことは、前にも紹介しているし、有名な話である。したがって科拳の一等合格者にこの大盤を与えた、十分にうなずけるし、他の皇帝がこんな銘文をつくってもその皇帝にとってなんの意味がないこともわかりすぎるほどわかる。つまりこの円銘文はこの大盤が本物の中国文物である事を証明しているのである。

 あとはこの大盤の出所が保坂さんのチャイナ・ウォッチング店だということである。しかし実はこの問題は、わが中国文化研究所でこの大盤が唐三彩?頭と肩を並べてあたりを睥睨している威風堂々たるその存在を見れば、わかる人には、それがどちらも本物であろうとなかろうと、その存在意義が容易にわかってもらえることはまちがいないと、私は今確信している。